京都経済同友会について

京都経済同友会小史

60年のあゆみ

[第2期]昭和50~平成10年

 続く第2期は、昭和50(’75)年から平成10(’99)年までを対象にします。京都経済同友会の、最初の拡大・飛躍の時代です。一方で、世界と日本、そして京都にも大きな転機の時代でもありました。
 直前の昭和48(’73)年、第一次石油危機が発生し、世界経済は混乱に襲われました。日本も、戦後一貫して追求してきた「大量生産・大量消費」「成長至上主義」からの転換を余儀なくされました。京都経済同友会は、昭和50(’75)年に代表幹事に就任した堀場製作所の堀場雅夫氏のリードで、新しい経済社会と企業経営のあり方などについて模索を続けました。
 その一方で、京都の将来についても、かつてない規模で論議を行い、行動を起こしています。先の大戦で空襲を免れたれた京都が、古都のたたずまいを維持しつつ、現代都市としてどのように機能していくか――、果てのない課題に対し、この時期、一つの構想が動きだします。「関西文化学術研究都市」建設です。もとは大学関係者を中心に発想されたものですが、具体案づくりに重要な役割を果たしたのが、昭和51(’76)年から代表幹事を務めたムーンバットの河野卓男氏であり、京都経済同友会でした。
 その取り組みのさなかの昭和53(’78)年4月、京都府知事選挙での林田悠紀夫陣営が勝利し、京都の産学公が「まちづくり」と経済振興に連携して取り組む体制が整います。
 しかし京都経済同友会は、京都の将来を考えるにあたって、一部の人たちだけの論議にとどめたりはしませんでした。その現れが、昭和53(’78)年4月からKBS京都テレビで放映した『この問題を考えよう』シリーズです。京都が抱えるいろいろな問題を、広く府民・市民に提起し、解決に向けて意見を募りました。こうしたテレビ番組の制作・提供は全国の経済同友会の中でも画期的な活動で、以後も平成4(’92)年度の『どうなるトーク・京都』、平成11(’99)年度の『どうする京都21』と、第2弾、第3弾を放っています。
 折しも京都は、平成6(’94)年の平安建都千二百年を迎えようとしていました。この歴史的節目に向け、京都経済同友会では京都信用金庫の榊田喜四夫、立石電機(現 オムロン)の立石孝雄の、両代表幹事の提案で「京都活性化プロジェクト」を発足させ、日本の文化首都、世界の京都づくりの観点からモデルプランと実現への方策づくりを進めました。都市と経済の両面にわたる活性化提案は、その後、京都府や京都市の政策にも積極的に採り入れられ、現在に至るまで生かされています。
 世界と日本は引き続き、東西冷戦体制の終えんや地球環境問題の深刻化、急激な国際化と経済構造の変動など、激動に見まわれます。それに対し、京都経済同友会は”世界における日本の立場”について、多彩な研究を行いました。これらは京セラの稲盛和夫、淡交社の納屋嘉治、村田機械の村田純一、京都みやこ信用金庫の川原陸郎、イシダの石田隆一、野村(現 ルシアン)の千田哲朗の歴代代表幹事がリードしました。

写真左:本会提供のテレビ討論会『どうする京都21』は大きな話題となった(平成11年4月25日、KBS京都テレビのスタジオにて)
写真右:古都・京都の活力をいかに高めるか・・・・・・真剣な議論の結果を提言書として発表した

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