京都経済同友会について

京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その3)
京都・近代化の軌跡

第15回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その3)


 経済の停滞は1902(明35)年以降も続きますが、これを吹き飛ばしたのはまたもや戦争―、日露戦争(’04(明37)年2月~’05(明38)年9月)での勝利でした。
 日露戦争は、満州〈現 中国東北部〉支配と朝鮮半島への影響力拡大を狙うロシア帝国が、清国の義和団の乱(1899(明32)~1900(明33))に乗じて満州に大軍を派兵、そのまま駐留したため、危機感をいだいた日本と衝突、勃発したものです。日本側には、日清戦争による遼東半島割譲に干渉したロシアに対する“遺恨”もありました。当時、日本とロシアとは国力に大きな差がありましたが、日本は日英同盟(1902(明35)年締結)を後ろ盾に戦争に踏み切りました。そして膨大な兵力と戦費をつぎ込み、多数の犠牲者をだし、ともかく“判定勝ち”に持ち込んだのです。米国の仲介によって結んだ日露講和条約(ポーツマス条約)では、賠償金は獲得できませんでしたが朝鮮支配を確実にし、満州進出の足がかりも得ます。
 この戦争においても、戦時中は軍事産業優先と巨額の戦費調達による金融ひっ迫で、多くの銀行が窮地に陥りました。しかし戦勝後は一転、国民意識の高揚(実は自信過剰と自惚れ)と産業の重工業シフトにより、急回復します。政府は軍備の近代化と拡張のため鉄鋼や造船にテコ入れしました。1897(明30)年に設立していた官営八幡製鉄所の生産を本格化させたのも日露戦争後でした。造船は、軍備だけでなく海運の強化も前提としています。
 鉄鋼・造船に連なって、機械器具や電機、鉱業などの分野へも会社設立の波が広がっていきました。朝鮮・満州での農業改良への期待から、肥料・豆粕・セメント・煉瓦などの化学・窯業にも関心が集まりました。そしてこの時期、電力の高圧長距離送電技術が飛躍的に高まり、工場への電力導入が容易になったことも工業拡大に拍車をかけました。
 しかし、’06(明39)年からの景気拡大はすさまじい投機(バブル発生)により、直ぐに頭を打ち、’07(明40)年1月に株式が大暴落します。同年10月にはニューヨーク証券取引所でも大暴落(いわゆる1907年恐慌)が発生したため、日本も欧米も経済はどん底に落ちます。当時の政府や日銀は、日露戦争遂行のため海外で調達した巨額の戦費(対外債務)の返済に追われていたので、公費で景気対策を行うどころか借金を返すために増税や公債発行(すなわち政府による資金吸い上げ)を重ね、民間の投資や消費を圧迫したため、経済は一向に好転しませんでした。こうした状況のもと、銀行ではまたもや取り付けや休業が相次ぎ、銀行整理と大銀行への預金集中が進みます。産業資本も、いわゆる財閥に集中していきました。

 京都においても、日露戦争中は西陣織などの奢侈・高級品が低迷し、また戦後には鉄道事業などに投資が集まるなど、国内の動向をそのまま映した経済状況でした。
 1902(明35)年以降に設立された払込資本金額10万円以上の大規模事業会社(株式会社)を、明治44年版『京都府統計書・参照附録』から拾い出し列記します(’06年当時の社名・事業・払込資本金額・所在地)
          *’02(明35)~05(明38)年設立の大規模株式会社は見当たりませんでした。
   [1906(明39)年設立]
   梅津製紙株式会社(洋紙製造)     30    葛野郡梅津村(現 右京区)
   [1907(明40)年設立]
   大日本ホテル株式会社(ホテル業)   100    粟田町(現 東山区)
   嵐山電車軌道株式会社(電気鉄道・電灯供給)
                      76    葛野郡朱雀野村(現 中京区)
   朝日製粉株式会社(小麦粉製造)    37.5   葛野郡大内村(現 下京区)
   洛北水力電気株式会社(電灯供給)   100    愛宕郡上賀茂村(現 北区)
   中舞鶴共同倉庫株式会社(倉庫)    11    加佐郡(舞鶴市)
   [’09(明42)年設立]
   株式会社外村商店(染・織物製造販売) 50    堺町通三条上ル
   京都瓦斯株式会社(ガス製造販売)   140    柳馬場通三条上ル
   [’10(明43)年設立]
   京津電気軌道株式会社(京都―大津間電気鉄道)
                      90    三条通大橋東
   伏見瓦斯株式会社(ガス供給)     12.42   紀伊郡伏見町(現 伏見区)
   [’11(明44)年設立]
   京都電気株式会社(電灯・電気供給)  100    三条高倉東

●梅津製紙株式会社
 梅津製紙株式会社は、京都府の勧業策の一環として1876(明治9)年に梅津(現 右京区)に設立された製糸場、梅津パピール・ファブリックが源流です。ドイツから製紙機器を輸入し、ドイツ人技師を雇い入れ、日本で初めて洋紙を製造しました。その後、’80(明13)年に個人に払い下げられ、磯野製紙所となり、これを母体に1906(明39)年、梅津製紙(株)に改組されました。
 その後も富士製紙株式会社に買収され(‘24(大13)年)、さらには富士製紙の初代王子製紙株式会社との合併(‘33(昭8)年)により、王子製紙京都工場として’43(昭18)年まで稼働しました。
●大日本ホテル株式会社
 東山区粟田口華頂町の、京都の市街を一望に見渡せる丘陵地に1890(明23)年、油商の西村仁兵衛(にしむら・にへえ)が遊園地「吉水園」を開業しました。10年後には園内に「都ホテル」を併設し(開業は1900(明33)年)、後にその運営会社として’07(明40)年に設立したのが大日本ホテル株式会社です。同社は、外国人旅宿として先行する也阿弥ホテル、京都ホテルと激しい競争を繰り広げます。また、京都では都ホテルのほか大仏ホテル、五二会ホテルを開設、京都以外でも奈良ホテル、有馬ホテルの経営に当たりました。しかし、戦争や世界的不況などに翻弄され、外国人客を主体とする経営はしだいに厳しくなっていきます。そこで’15(大4)年、株式会社都ホテルとして経営体制を一新し(大株主の日本生命保険が経営陣を派遣)、京都の迎賓館名門ホテルとして経営を続けました。現在は近鉄グループに吸収合併されるとともに、スターウッド・ホテル&リゾートと提携(2000年)し、「ウエスティン都ホテル京都」となっています。
●嵐山電車軌道株式会社
 嵐山電車軌道株式会社は1907(明40)年、神戸の川崎財閥によって設立された鉄道会社です。’10(明43)年に、四条大宮・嵐山間を開通(単線)させます。電車運行とともに電気の供給事業も行いましたが、京都電燈と激しい競争となり、結局、’18(大7)年に鉄道もろとも同社に身売りします。その後、京福電気鉄道に譲渡(’42(昭17)年3月)されますが、これは戦時下の配電統制令によって京都電燈の事業が強制的に分割・再編されたためです。
●京津電気軌道株式会社
 鉄道敷設ブームが沸き立っていた1906(明39)年頃、旧東海道沿いに京都市中心部と大津市中心部とを電気鉄道で結ぶ計画が、複数持ち上がります。そこで鉄軌道事業を監督していた鉄道院は事業の一本化を求め、その結果、’10(明43)年に設立されたのが京津電気軌道株式会社です。同社は’11(明44年)年に東山三条―浜大津間 10.0kmの軌道敷設工事を開始、部分開通を行いつつ、大正末期にようやく全線開通にこぎつけます。その間の’25(大14)年2月に、京津電気軌道株式会社は京阪電気鉄道株式会社に吸収合併されていたので、完工時は京阪電鉄京津線となっていました。旧京津電気軌道は配電事業も行っていたので、同事業は’26(大15)年、京都電燈に譲渡されました。

 ここまで、京都の産業分野における明治10年代からの会社設立状況を見てきましたが、これを日本国内の経済推移と照らし合わせると、次のような特徴が読み取れます(10項列記)。
(1) 明治初期、勧業政策として舎密局(せいみきょく)など先駆的な公的事業が展開されたが、新たな地場産業を創出し、京都の産業構造を組み替えるには至らなかった
(2) そのため以後も、生産・出荷・労働など経済面で、西陣織・友禅染・陶磁器そのほか在来業種への依存が続くことになった
(3) 在来業種でも機械や化学知識の導入による生産の合理化が取り組まれたが、いずれも多品種少量の高級品のウエートが高かったため、それらはもっぱら技法の高度化に援用され、量産化のためには活用されず、したがって事業所も個人経営による中規模以下を主流に推移した
(4) その間、“日本の産業革命”が進行するが、前期の主軸となった軽工業(繊維)、なかでも大規模な紡績(綿糸製造)工場の立地は進まなかった(近畿では主に大阪に建設された)
(5) “日本の産業革命”の後期に至っては、主軸の重工業(鉄鋼・造船)の工場は、地形などに起因する生産条件の問題から京都に立地しなかった(同、主に阪神間に建設された)
(6) そのほか、民間の産業集積を誘発するような機構、施設(たとえば軍の工廠)にも乏しかった
(7) 上記(1~6)のような事情のもと、外部から多額の産業資本が京都に投下されることはなく、地元資金(地主や富裕商工業者による利殖目的の投資)も京都域外へ向かった
(8) そのため、京都における“新興産業”は、おのずから大量の資源やエネルギーを費消しない付加価値の高い製品分野、業種では機械・精密機器、電機、金属加工などを志向することとなった
(9) 機械工業ではとくに、西陣織・丹後ちりめん・京染を背景に繊維機械が成長した
(10) また、京都は近世の江戸時代から洋学のメッカで、近代になると理化学教育と科学技術育成に熱心に取り組んだので、精密機器などにおいては、早くから知識集約・課題解決タイプの業態が育っていった

 ところで、この連載の第8回「近代的産業活動の本格化」において、1875(明8)年創業の理化学機器や精密機械装置製造業、島津製作所の初代島津源蔵(しまづ・げんぞう)や、西陣織物の改良と新製品開発、海外への販路拡張の先駆者となった川島織物(創業は1843(天保14)年)の二代目川島甚兵衛(かわしま・じんべえ)を取り上げましたが、ここまでに紹介した会社の中に両社はありませんでした。それというのも、島津製作所が株式会社となったのは1917(大6)年、川島織物は1938(昭13)年だからです。それまでは両社ともに個人経営の事業所だったのです。京都産業界の近代化をリードする新しい活動を展開しましたが、事業所を資本主義的組織(株式会社)にするのは慎重だったようです。
 実は、京都で永年にわたり事業を営んできた個人(または)同族が株式会社を設立し、経営形態を近代化するのは明治後期から大正にかけてです。デパートの大丸〈現 J.フロント リテイリング株式会社傘下の大丸松坂屋百貨店〉は、1717(享保2)年に伏見で開業した古着商を源流とし、江戸末期にはすでに大坂・名古屋・江戸で手広く呉服を商っていましたが、会社組織にしたのは1907(明40)年です(当初は「株式合資会社大丸呉服店」、総本店大阪)。高島屋もまた、1831(天保2)年に京都で創業した古着・木綿商店をルーツとし、明治に入って一気に業容を拡大しますが、会社組織にしたのは1909(明42)年)でした(当初は「髙島屋飯田合名会社」、本店大阪)。京都の老舗は製造業・商業を問わず、日本に資本主義体制・制度が根付き、安定するのを見極めてから、事業組織の改変を行ったわけです。これも京都の商工業者の生き残り術だったかもしれません。明治中頃までに設立された、規模の比較的大きな会社の多くが、政府の制度・政策変更、恐慌、需給(市場)変動にさらされ、間もなく買収や他社との合併、果ては解散・倒産といったかたちで表舞台から退場したのと対照的です。

 ただ、そうした経過の中で、“近代京都”は明治30年代から産業面で大阪に後れをとり、明治末期になるとすでに工場集積・生産額などで大きく水を空けられていました。そのため、たとえば繊維関連では、化学染料の輸入と普及に大きな役割を果たした稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう)の稲畑染料店〈現 稲畑産業株式会社〉や長瀬伝三郎(ながせ・でんざぶろう)の長瀬商店〈現 長瀬産業株式会社〉などの“京都企業”も、主要マーケットである大阪に本拠を移さざるをえませんでした。
 有力な地場産業が育たなかったことは、地元銀行の経営にも影響を及ぼしました。京都に本店を構える銀行は一時(日清戦争後の銀行設立ブームの頃)、19行を数えましたが、その後の恐慌や、東京・大阪を本拠とする大手銀行の支店の大攻勢に遭遇したうえ、有力な貸出先となる地場産業企業群が育たなかったことで地元銀行成長の基盤が整わず、次々と姿を消していきました(地元の有力銀行であった京都商工銀行が1916(大5)年に第一銀行〈現 みずほ銀行〉と合併するに至り、京都に本店を置く銀行は1953(昭28)年までゼロでした)。
 “会社設立”という側面からですが、このようにたどっていくと、京都の産業の近代化(とくに工業化)が大阪そのほかの都市と様相を異にしたことや、都市としての経済力の差が生じた理由も明瞭になってきます。そして、現在の京都産業の特徴とされるいくつもの事柄が、この近代化の過程に根ざしていることが推測されます。                                    

2014/01(マ)
                 *次回は「民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)」です。

【関連年表】
1894(明27)7月 日清戦争開戦(~’95(明28)年5月)
1895(明28)4月 京都・岡崎で第4回内国勧業博覧会開催(1日~7月31日)
1895(明28)4月 下関で日清講和条約(下関条約)締結
1895(明28)10月 平安遷都千百年紀念祭(22日から3日間)
1897(明30)10月 日本が金本位制に移行
1897(明30)景気が悪化し、恐慌状態となる(~’98年頃まで)
1897(明30)軍備拡張の基礎となる鉄鋼の国産化に向け官営八幡製鉄所〈現 新日本製鉄八幡製鉄所〉設立
1899(明32)改正商法(現行商法の元となる法律)施行
1900(明33)国内で金融恐慌発生
1901(明34)5月 米ニューヨーク証券取引所で株式大暴落、世界年恐慌に発展
1902(明35)日英同盟締結
1904(明37)2月 日露戦争開戦(~’05年9月)
1905(明38)9月 日露講和条約(ポーツマス条約)締結
1906(明39)官営八幡製鉄所が本格生産を開始
1906(明39)国が鉄道国有法を公布し、主要幹線の民営鉄道17社買収へ
1907(明40)東京電灯<現 東京電力>が甲府・桂川の駒橋水力発電所から東京への送電に成功
1907(明40)1万トン級鋼鉄船の国内自給率で60%達成、造船技術も世界トップ級に

【参考資料】
▽国立国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵『京都府統計表』または『京都府勧業統計報告』の明治13年以後各年版
▽正木久司「研究ノート 明治・大正期の京都における銀行の動向」(同志社大学人文科学研究所『社会科学』19号所収、1975)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)

日清戦争直前の1894(明27)年4月、京都にも日本銀行京都出張所が開設され(1911(明44)年、支店に昇格)、地方経済安定のかなめとなった(写真は1906年(明39)年完工の旧店舗=下京区三条高倉、現 京都府立京都文化博物館別館))

 京福電鉄嵐山線(嵐電)は、1907(明40)年に神戸の川崎財閥によって設立された鉄道会社を源流としている


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京都・近代化の軌跡 第9回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第8回 近代的産業活動の本格化
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京都・近代化の軌跡 第5回 在来産業のイノベーション(その1)
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