京都経済同友会について

京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その5)
京都・近代化の軌跡

第17回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その5)


 前回に続き、山本覚馬の門下生ら“黎明期の京都財界”を組織した「“重鎮”たちの巻」です。

■ 新聞のみならず諸事業に参画、「京都市三大事業」も推進した 雨森菊太郎
 雨森菊太郎[あめのもり・きくたろう、1858~1920/安政5~大正9]は、前回紹介した浜岡光哲(はまおか・こうてつ)とともに京都の言論界をリードし、また他分野の事業経営でも才を発揮しました。
 京都府山城の岩垣家の生まれですが、幼児のときに雨森家の養子となりました。京都私立独逸学校(現在の京都薬科大学の前身)を経て山本覚馬に師事し、政治・経済などを学んでいます。京都府に勤務しますが、新聞記者を志し浜岡光哲の京都滋賀新報社(のち中外電報社)に入社します。そして、浜岡が別働隊として設立した日出新聞社に移り、卓抜した編集指導でにわかに「日出新聞」の人気を高めます(これにより、“本家”の中外電報社の方が“分家”の日出新聞社に吸収合併されます)。1902(明35)年、浜岡の後を受けて社長となり、終生在任しました。
 実業家としても活躍し、京都府農工銀行頭取、京都自動車会社社長、京都電鉄取締役などに就任。また府会議員・市会議員(市会では第4代議長も務めた)や、衆議院議員としても活躍しています。衆院議員は第5回(1898年、京都1区=上京区)、第6回(同)、第8回(1902年、京都市区)の3期、務めました。
 教育関係では京都法政学校(現 立命館大学)設立賛助員として同校の発足を後援しました。

■ 行商から身を起こし多方面に事業を拡大した 大沢善助
 大沢善助[おおさわ・ぜんすけ、1854~1934/安政1~昭和9]は、侠客の松尾音松の次男に生まれました(“侠客”は義に生きることを信条として行動した―そのため時には脱法行為も行った―者を言い、職業ではなく、またヤクザとはまったく異なる)。父・音松の親分は人足請負(現場労務者を斡旋する職業)をしていた大垣屋清八で、善助はのちにその養子となります。清八は会津藩に出入りしていたため戊辰戦争後、立場を悪くしますが、やがて盛り返し大沢性を名乗りました。大沢善助は当初、行商を営み、顧客の一人だった山本覚馬の知遇を得ます。そして山本の自宅(私塾)での講義を台所や庭先で聴いていたところ、熱心さを認められ、門人と同じ扱いを受けるようになったということです。山本に紹介され、新島襄とも親しくなります(大沢は1877(明10)年、新島から洗礼を受けクリスチャンになっています)。
 そのようにして身につけた知識と持ち前の商才で、行商から米穀商、押絵製造、金庫・衡器(はかり)の輸入販売などに事業を拡大し、1882(明15)年の京都商工会議所設立時には発起人に名を連ねるまでに成長していました。
 京都府が琵琶湖疏水建設を計画したときは事業家としてこれを全面的に支持し、自ら推進役となって関係者間の調整などの労をとります。その間、本業の方では京都時計製造会社を設立(’91(明24)年、のちの大沢商会)して時計製造に乗りだし(ただし完成品ではなく、駆動部分を輸入し掛時計を組み立てたと思われる)、また、京都電燈会社(’92(明25)年設立)の経営にも加わり、蒸気発電による電力供給事業を手がけます。それゆえに、琵琶湖疏水の関連事業として蹴上で水力発電が始まったときは、その電力をいち早く京都時計製造会社の動力源に採用、京都電燈会社でも蹴上発の電力を購入し、自家発電と併せて販売するようにしました。さらには市街電車を走らせるため、京都電気鉄道会社の設立(’94(明27)年)にも参画しています。
 経済活動とともに、京都府会議員(議長にも就任)としても琵琶湖疏水建設に尽力しました。
 教育面では同志社、免囚少年の矯正事業にも尽くしています。

■ 初代民選京都市長となった呉服問屋の大旦那 内貴甚三郎
 内貴甚三郎[ないき・じんざぶろう、1848~1926/嘉永1~大正15]は、天保年間から京都市東洞院御池上ルで呉服問屋を営む「銭清」に生まれました。家祖は近江出身だったということです。当主は代々、清兵衛(せいべえ)を名乗り、内貴もそれを継承しましたが、明治の中頃に甚三郎に改めています。
 内貴はその財力を背景に、早くから有力経済人として活動し、京都商工会議所には設立発起人として参加、京都織物会社委員長、京都株式取引所肝煎、京都商工銀行・京都陶器会社の各取締役にも就任していますが、今に名を残しているのは、なんといっても1898(明31)年10月から初代の民選京都市長を務めたからでしょう。このときの“民選”は、市会が推薦した者を内務大臣が選任するもので、現在のように市民が立候補者の中から直接選ぶという方法ではありませんでしたが、それでも京都市発足以来の知事兼任制度(東京・大阪・京都の3市特例)が市民の強い要望によって廃止された経過があったので、画期的なことでした。
 市長となった内貴は、1904(明37)年10月までの任期中に京都の社寺復興に尽力し、下水事業、道路拡張など交通網を整備し、観光都市・京都の基礎を造りました。任期満了後は衆議院議員を務めました。政治の現場を離れて以降は再び経済人に戻り、京都商工貯金銀行頭取を長く務めました。
 内貴の長男・清兵衛[1878~1955/明治11~昭和30]は家業の呉服問屋を継ぎ、日本新薬株式会社の設立など経済活動も行いましたが、それよりも若手の画家や工芸家のパトロンとして名を馳せました。

《新聞による“重鎮”批評》
 ところで、大阪朝日新聞が1923(大12)年7月1日付から15日付まで、『財閥から見た京都』と題する連載記事を掲載しています(全13回、参照は神戸大学デジタルアーカイブ)。明治後半から大正にかけて活躍していた浜岡光哲、田中源太郎、大沢善助ら京都の経済人の面々をおもしろおかしく批評した、というより京都をおちょくった品位に欠ける記事ですが、それなりのおもしろさがあるので取り上げます。
 『財閥から見た京都』の連載第1回で執筆者はまず、京都を「営養不良」の地(石炭を産するでもなく、何の経済的利益も産まない土地柄)で人間に生気がなく、経済活動も「儲けるより遣うな」式に極めて消極的なので、財閥(事業集団)が生まれる余地はない…と一刀両断で切り捨てています。さらに、銀行がカネ(預金)を集めても活用ができない(投資する産業がない)から京都に本店を置く銀行がなくなってしまった、京都では銀行からカネを借りると経営の健全性を疑われるので、本当に資金が必要なときはこっそりと高利貸しのところに行っている(だから京都は貸金業者が日本で一番多い)と当てこすっています。それでも当世、皆が一目を置く経済人が京都にいるのは驚くべきことで、その極意は“堅実”に違いないと皮肉たっぷりです。
 本論では、内貴甚三郎、浜岡光哲、田中源太郎の「三元老」、次いで大沢善助ほかを取り上げています。三元老については、「内貴は奔走好き、浜岡は恬淡、田中は採算が巧で、三人よせると理想的な財界の頭目ができる」と評しています。“奔走好き”とは世話好きで野次馬精神旺盛、“恬淡(てんたん)”はものごとに執着せず鷹揚なところがあり、“採算が巧”は計算高いということでしょうか。
 個別には、内貴を「京都の旧い資産家で、危険な事業経営の表面から隠れ、神社仏閣の修理から、名勝保存の企てには、この内貴老のお名前がでないと遂行がむづかしい」と、立ち回りのうまさを強調しています。浜岡については、事業力はいま一つなのに商業会議所の会頭に納まり、中国との貿易の旗振り役をしているが、周囲は皆、明治34年に関西貿易を破綻させたことを忘れておらず冷ややか、しかし、新聞経営者だけあって天下国家を論ずることにかけては京都随一と評しています。
 田中に至っては「一生涯損をした事がないといわれる程、頭の冷透な男で眼前が利くのは勿論情誼によって利害の圏内を犯させず、自利一貫で終始」していると、抜け目のなさを強調しています。田中はこの記事の掲載時点で、保津峡鉄橋での列車転落事故に巻き込まれ、すでに死去していましたが、執筆者はそれも引き合いに出し「数百人の乗客中、たった一人死んでのけた」と、まるで強欲の因果と言わんばかりです。
 大沢は田中の“直系の子分”扱いで、「(大沢が)24年頃に日向の国(現在の宮崎県)の開拓事業を目論みて散々な眼にあい、京都に舞い戻った処を、時の電燈(京都電燈会社のこと)社長の田中源太郎に拾われ……田中の命で電燈の分身たる電鉄(京都電気鉄道のこと)へはいり、通行税の胡魔化しに連坐して刑にふれ……罪を一身に引きうけて暗い処へ行ったので、田中の信用がさらに増した」と、2人の関係を暴露(?) しています。しかし、大沢の経営は堅実で、その一方で新しい事業にも突進し、人材を見いだしヘッドハントするのがうまいと評価しています。ただし、やり方が強引で品がないのは俠客出身だから…と最後に落とすことを忘れていません。

《功利主義に徹した政治活動》
 さて、ここまで挙げてきた“重鎮”たちは皆、経済活動と併せて京都府会議員・市会議員、そして大沢以外は衆議院議員も務めています。実業家と政治家の二足のわらじを履いたわけですが、では、彼らの政治活動や政治姿勢の方はどうだったのでしょうか。少し横道に逸れますがたどってみます。
 浜岡、田中、中村、雨森、大沢、内貴の面々が政治活動を行ったのは、地方制度が順次整備され、国も憲法を発布(‘89(明22)年)し、議会を開設(‘90(明23)年)する頃から明治末にかけてです。地方と中央の統治制度が形づくられていった時期に当たります。国と地方のビジョンづくりに国民の関心は高く、立場や利害得失の異なる各界各層からさまざまな意見が出され、行動も起こされました。その中で彼らは、京都を代表する新進気鋭の商工業者(いわゆる新興ブルジョワジー)として、自分たちや京都の利益のために政治活動を行ったといえます。彼らは、個人的信条がどこまで一致していたかは分かりませんが、「京都公民会」という地方政治結社を組織し、共に行動しました。
 京都公民会はその名称どおり、京都府下の“公民権”(当時の公民権は、府会の場合、選挙権が年間地租5円以上納付の満20歳以上の男子、被選挙権は同10円以上納付の満25歳以上の男子であった) を有する者の会、すなわち資産家の会で、’89(明22)年2月11日に発足し ’92年(明25)年3月16日に解散しています。わずか3年余りでしたが、府政・市政、衆議院議員選挙などに大きな影響を及ぼしました。
 設立のきっかけは前年の’88(明21)年12月16日、府会議長の職にあった田中源太郎が、府会議員有志の懇親会で地方政治組織創設の必要性を説いたことにあるといわれています。表向き、「現今の政党または政治上会合の外に立ち」「知識を交換して交誼親密にする」中立的な親睦組織をうたいましたが、実際には、明治十年代の自由民権運動の復活を意図する“大同団結運動”に対抗し(反民権)、かつ、現実的な思考と対応で京都に有利な政治活動をするのが目的でした。そのために、府会はもちろん、きたるべき’89(明22)年4月の第1回京都市会議員選挙で一大勢力を築き、さらに ‘90(明23)年に行われる第1回衆議院議員選挙(総選挙)への足がかりをつくることも狙ったのでした。
 京都公民会の会員数は最高時1200人に達したといわれます。主力は京都府会議員・市町村会議員・町村長と京都商工会議所( ’91(明24)年から京都商業会議所)役員、京都市中の有力企業家で、とくに府会・京都市会では最大会派を形成しました。田中、浜岡光哲らと北垣国道知事(市長)は、琵琶湖疏水建設事業や民間企業育成策を通じ、かねてから盟友関係にあったので、京都公民会派は府会・市会で当然のごとく知事(市長)を支援しました。
 しかし、たとえ勢力を誇っても反対派は発生するもので、もともと対抗を目的とした民権派はもちろん、琵琶湖疏水建設に異を唱えてきた府民・市民らの反発も小さくありませんでした。また、京都公民会の中でも、琵琶湖疏水建設・同関連事業で恩恵を受けない地域の会員の不満が広がり、必ずしも一枚岩にはなれませんでした(研究者によると、京都公民会が3年余りで解散に至ったのは琵琶湖疏水と関連施設建設の是非や利得をめぐって内部的に対立した結果ではないかと指摘されている)。こうした状況を映し、第1回衆議院選挙における候補者選出もすんなりとはいかず、一部で波乱の経過をたどりました。
 ともかくも、’90(明23)年7月1日に行われた第1回総選挙では京都府第1区(三条通以北の上京区)から浜岡、同第2区(三条通以北の下京区)から中村栄助、同5区(亀岡など)は田中が立候補し、当選しています。中央に進出した田中、浜岡、中村は院内会派である「大成会」に籍を置きます。大成会は、第1回総選挙当時の主要政党であった立憲自由党(民権派、’80(明13)年に板垣退助らが中心となって結成した自由党の流れを汲む)と立憲改進党(民権派、’82(明15)年に大隈重信が中心となって結成した政党)の、どちらにも属さない議員の有志によるグループで、不偏不党・中立を信条としました。しかし、政治課題には是々非々、どちらかといえば政府寄りの政党(そのため民権派からは「吏党」と呼ばれた)でした。実際のところ、田中、浜岡、中村の議員活動は「吏党」的でしたが、これは当時の京都が懸案としていた平安遷都1100年紀念祭挙行、第4回内国勧業博覧会誘致、京都―舞鶴間の鉄道建設認可を実現に導くための功利的対応だったといわれています。
 そうした政治姿勢は、田中、浜岡、中村に続いて衆議院議員となった雨森や内貴も同様でした。
                                     2014/03(マ)
                *次回は「民間企業の興隆と経済人の活躍(その6)」です。

【関連年表】
1868(慶応4)京都府開庁
1871(明4)廃藩置県・府県官制(府県に知事を任命配置)
1874(明7)自由民権運動始まる
1877(明10)西南戦争
1878(明11)府県会規則など三新法制定(これにより京都府会が開設)
1879(明12)京都府で第1回府会議員選挙、第1回府会開会
1881(明14)京都府知事に北垣国道が就任、琵琶湖疏水の検討を始める
1881(明14)国会開設の勅諭(10年後の’90年を期して開設する)
1882(明15)京都商工会議所創立
1885(明18)琵琶湖疏水建設着工
1885(明18)12月 内閣制度発足にともない初代総理大臣に伊藤博文(第1次伊藤内閣)
1887(明20)京都織物会社設立(操業開始は’90年)
1888(明21)京都電燈会社設立(営業開始は’89年)
1888(明21)4月 黒田清隆内閣発足
1888(明21)4月 市制町村制制定(これにより行政単位として市町村を設け、それぞれに市町村会開設、市町村長選任、条例・規則制定権を認めるも、東京・大阪・京都の3市については特例として知事が市長を兼ねるなどした)
1889(明22)2月 京都公民会設立
1889(明22)2月 大日本帝国憲法発布
1889(明22)4月 京都市が市制施行、第1回市会議員選挙、第1回市会開会
1889(明22)12月 第1次山縣有朋内閣発足
1890(明23)4月 琵琶湖疏水完工
1890(明23)7月 第1回衆議院議員選挙、第1回帝国議会開会
1891(明24)5月 第1次松方正義内閣発足
1892(明25)2月 第2回衆議院議員選挙
1892(明25)3月 京都公民会解散
1892(明25)北垣知事が離任
1892(明25)8月 第2次伊藤内閣発足
1894(明27)京都電気鉄道設立(営業運転開始は’95年)
1894(明27)3月 第3回衆議院議員選挙
1894(明27)7月 日清戦争(~’95(明28)年5月)
1894(明27)9月 第4回衆議院議員選挙
1895(明28)4月~ 京都・岡崎で第4回内国勧業博覧会開催
1895(明28)10月 平安遷都千百年紀念祭
1896(明29)9月 第2次松方内閣発足
1897(明30)京都鉄道会社が設立され京都から舞鶴方面への鉄道敷設工事開始
1898(明31)1月 第3次伊藤内閣発足
1898(明31)3月 第5回衆議院議員選挙
1898(明31)6月 第1次大隈重信内閣発足
1898(明31)8月 第6回衆議院議員選挙
1898(明31)10月 東京・大阪・京都3市の市制特例撤廃にともない、初代の民選京都市長に内貴甚三郎が就任
1898(明31)11月 第2次山県内閣発足
1900(明33)10月 第4次伊藤内閣発足
1901(明34)浜岡光哲が社長を務める関西貿易が世界的金融恐慌のあおりで経営破綻

浜岡光哲、田中源太郎、中村栄助、雨森菊太郎、大沢善助、内貴甚三郎はいずれも京都商工会議所を拠点に京都経済界を指導した …… 写真は現在の京都商工会議所

浜岡光哲、雨森菊太郎は「日出新聞」発行をはじめとして多彩な事業活動を行った …… 写真は「日出新聞」の流れを汲む京都新聞社の現在の社屋


過去の記事

京都・近代化の軌跡 第22回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その2)
京都・近代化の軌跡 第21回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その1)
京都・近代化の軌跡 第20回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)
京都・近代化の軌跡 第19回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)
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京都・近代化の軌跡 第16回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)
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京都・近代化の軌跡 第13回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その1)
京都・近代化の軌跡 第12回 琵琶湖疏水のたまもの(その2)
京都・近代化の軌跡 第11回 琵琶湖疏水のたまもの(その1)
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京都・近代化の軌跡 第9回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第8回 近代的産業活動の本格化
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京都・近代化の軌跡 第3回 西洋の技術を取り込め
京都・近代化の軌跡 第2回 京都復興は人材育成から
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