京都経済同友会について

京都再発見

京都・近代化の軌跡  プロローグ
京都・近代化の軌跡

第1回 プロローグ

~遷都と京都の復興活動


 宮都ゆえに江戸時代末期の動乱に巻き込まれた京都。政争だけでなく、テロや「禁門の変」(蛤御門の変、1864(元治1)年7月) の舞台にもなりました。徳川幕府の政権返上(大政奉還)後もなお、鳥羽・伏見の戦い(1868(慶応4)年、戊辰戦争の始まり)の災禍に見舞われます。
 そして、1869(明治2)年に戊辰戦争が終わり、京都が名実ともに日本の首都(明治維新政府の拠点都市)として復活しようとしたとき、予想だにしなかった事態が発生します。遷都です。ただ、市中の動揺が余りにも大きく、中止嘆願が強まったため、太政官(新政府)は「天皇はしばらく東行するだけ」とごまかし、なしくずし的に実行します。御座所と政府機関が、江戸改め東京に移ったため、公家や官吏、有力商人も後を追いました。これにより、御所周辺の公家町はほとんど消滅してしまいます。(現在の京都御苑はその跡地です)

 京都の商工業は、公家や有力商人への依存度が高かったので、遷都はまさに大痛手でした。その衰微は著しく、人口も維新前の35万人から20万人近くへと急減してしまいます。この、存亡にかかわる危機をどう切り抜けるかが焦眉の急でした。ここで立ち上がったのが、1868(慶4)年に開設された京都府でした。初代知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)が中心となって獲得した租税免除の特典や10万円の産業基立金、15万円の勧業基立金などを資金に、街の復興に向けてさまざまな施策を実施します。これを引き継ぎ、勧業政策・開化政策を推進したのは二代知事・槇村正直(まきむら・まさなお)でした。槇村は、明石博高(あかし・ひろあきら)・山本覚馬(やまもと・かくま)といった有能な政策マンを登用し、矢継ぎ早に施策を展開します。この、槇村の施策に町衆(京都の商工業者)が呼応し、京都の振興策すなわち近代化が進んでいくのです。(ちなみに京都市政が施行されるのは’89(明22)年です)
 ところで、京都復興をリードした槇村正直は旧山口藩士で、1868(明1)年から維新政府の官僚として京都府に出仕、’77(明10)年には二代府知事となり4年間在任しました。初任の権大参事(副知事補佐)から数えると13年間、府政の中枢にいました。政府の元老木戸孝允の懐刀といわれ、その支援も得て遷都後の京都復興のために積極的な勧業政策を推進しました。
 また、明石博高は1839(天保10)年、四条堀川西入ルの薬種商の家に生まれ育ち、儒教・仏教・国学・西洋医学・物理学・化学などを修めた俊英でした。早くから民間医師らと医学研究会を立ち上げ、薬学・化学の研究会なども開いています。そして、大阪の舎密局(せいみきょく=理化学講習所)に務めた経験から、京都にも舎密局開設の必要性を府に訴え、’70(明3)年にこれが通ると槇村京都府参事の要請で舎密局主任に就任。さらには府の勧業課長となって、政策立案に腕を振るいます。山本覚馬は会津藩の砲術士の家に生まれ、のちに江戸に出て蘭学を学びました。1864(元1)年に上洛し、市中で洋学塾を始めます。1870(明3)年、京都府の顧問に採用され、勧業御用掛を務めます。同志社を創立した新島襄の夫人、八重は覚馬の妹です。

 明治から大正に至る一連の京都の近代化政策を、地元では「京都策」と呼びました。京都策は、時代や担い手の変遷に応じて3期に分けることができます。第1期は1868(明治元)年から、槇村が二代知事を離任する’81(明14)年まで、第2期は’81(明14)年から’95(明28)年ごろまで、第3期は’95(明28)年から大正年間を通じて、とされています。
 「京都策」第1期に京都再生の基盤、すなわち近代化への道筋がつくられます。その主な施策を挙げると……

  • 小学校の開設[1869(明2)年]
  • 舎密局(せいみきょく、理化学講習所)の開設[1870(明3)年]
  • 勧業場(産業振興センター)の創設[1871(明4)年]
  • 京都博覧会の開催[1871(明4)年]
  • 製革場の設立[1871(明4)年]
  • 西陣織の織工を技術習得のためフランスへ派遣[1872(明5)年]
  • 新京極の建設[1872(明5)年]
  • 女紅場(にょこうば、女性のための教育センター)の開設[1872(明5)年]
  • 牧畜場の開業[1872年(明5)年]
  • 栽培試験場(農業試験場)の開所[1873(明6)年]
  • 鉄具製工場の開所(金属加工業の振興へ)[1873(明6)年]
  • 学校の誘致・開設
    • 慶應義塾京都分校を誘致[1874年(明7)年、約1年間開設]
    • 同志社英学校(現 同志社大学)を開学[1875(明8)年]
    • 京都府立医学校(現 府立医科大学)を開学[1879(明12)年]
    • 西本願寺大教校(現 龍谷大学)を開学[1879(明12)年]
    • 京都府画学校(現 京都市立芸術大学美術学部)を開学[1880(明13)年、日本初]
  • 織殿と染殿(おりどの・そめどの、染織試験場)を開所
                     [織殿=1874(明7)年、染殿=75(明8)年]
  • 洋紙の製造を起業[1876(明9)年]
  • 麦酒(ビール)造醸所を開設[1877(明10)年]

 こうして並べると、京都の復興と振興策が人材育成(小学校の開設、女紅場の開設など)、情報の受発信(京都博覧会の開催)、産業振興(勧業場の創設、各業種の近代化)を軸に進められたことが分かります。

 そして産業振興策として、洋式技術の導入(拠点となったのが舎密局)、在来業界の高度化(織殿と染殿の開所、製革場の設立)、新規産業の創出(鉄具製工場の開所、洋紙の製造の起業)、新たな集客の場づくり(新京極の建設)などが実施されました。戦略的には今の時代にも通じています。

 「京都策」第2期の主要事業は、もちろん琵琶湖疎水の建設とその活用です。第3期では水利、水道、道路拡幅と軌道敷設など都市基盤の整備が推進されます。

  このシリーズでは、明治から大正に至る京都の近代化について、トピックを追いながら軌跡をたどります。

*本文中、各元号の元年を1年と表記しています。

2012/09(マ)

関連年表 

1864(元治元) 7月 禁門の変
1867(慶応3) 10月 将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上
  12月 朝廷が王政復古を宣言
1868(慶応4) 1月 戊辰戦争始まる
  3月 市中取締役所を京都裁判所と改称
  閏4月 京都裁判所を京都府と改称、長谷信篤が初代京都府知事に(京都府開庁)
  7月 町組織の大仲を改編し番組を設置
  7月 江戸を東京と改称
  (明治元) 8月 明治天皇即位(9月明治改元)
1869(明治2) 1月 上下京の境を三条通に変更し、上京33・下京32番組設置
  3月 明治天皇東上(東京遷都)
  5月 上京第27番組小学校開校(のちの柳池小学校)、同年中に市内64番組に各開校
  5月 函館五稜郭落城で戊辰戦争終結
  7月 藩籍奉還
  9月 遷都問題で市民に動揺広がる
  10月 京都府庁を下立売新町西入ルに移す
  11月 西陣物産引立会社開設

 

【参考資料】

▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻・第10巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都市教育委員会・京都市学校歴史博物館編『京都 学校物語』

京都御苑の蛤御門……幕末期、この地で行われた薩摩軍と長州軍の衝突は激戦となり、京の町の3分の1を焼く大惨禍(どんどん焼、または鉄砲焼)を引き起こしました。

御所周辺には公家町があったが、今は今出川通烏丸東入ルに冷泉家が残るだけです(周囲は同志社大学)。


過去の記事

京都・近代化の軌跡 第22回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その2)
京都・近代化の軌跡 第21回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その1)
京都・近代化の軌跡 第20回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)
京都・近代化の軌跡 第19回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)
京都・近代化の軌跡 第第18回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その6)
京都・近代化の軌跡 第17回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その5)
京都・近代化の軌跡 第16回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)
京都・近代化の軌跡 第15回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その3)
京都・近代化の軌跡 第14回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その2)
京都・近代化の軌跡 第13回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その1)
京都・近代化の軌跡 第12回 琵琶湖疏水のたまもの(その2)
京都・近代化の軌跡 第11回 琵琶湖疏水のたまもの(その1)
京都・近代化の軌跡 第10回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第9回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第8回 近代的産業活動の本格化
京都・近代化の軌跡 第7回 新たな賑わいづくり
京都・近代化の軌跡 第6回 在来産業のイノベーション(その2)
京都・近代化の軌跡 第5回 在来産業のイノベーション(その1)
京都・近代化の軌跡 第4回 知識と情報を商売の糧に
京都・近代化の軌跡 第3回 西洋の技術を取り込め
京都・近代化の軌跡 第2回 京都復興は人材育成から
京都・近代化の軌跡 第1回 プロローグ

ページトップへ戻る