京都再発見

京都・近代化の軌跡  琵琶湖疏水のたまもの(その1)
京都・近代化の軌跡

第11回 琵琶湖疏水のたまもの(その1)


 琵琶湖疏水建設は1890(明23)年4月9日、竣工式にこぎつけ、大津から蹴上への導水が成りました。引き続き行われていた“蹴上以降”の本線水路(鴨東運河)工事も同月中に完工し、琵琶湖の水はインクライン下部の南禅寺舟溜りから夷川閘門(えびすがわこうもん)を経て直接、鴨川に注がれることになりました。大津―蹴上に運搬船が就航したのは翌’91(明24)年7月ですが、その間の’91年5月に待望の蹴上発電所が完工し、11月に送電が開始されるやインクラインの動力も水車から電気式に切り替えられました。

 さらに、蹴上と伏見を舟でつなぐため、鴨東運河と接続する水路(鴨川運河)を鴨川東岸に新設する工事も’92(明25)年11月に始まり、’94年(明27)年9月に開通。翌’95年1月から運用が始まっています。同年3月には伏見(墨染)インクラインも完工し、大津―(疎水)―蹴上―(鴨東運河・鴨川運河)―伏見―(宇治川・淀川)―大阪の水運ルートが開通したのでした。
 琵琶湖疎水の開通と運用は、電力・水力の動力源や運輸のほか、灌漑を含む用水確保など、多大な恩恵を関連地域にもたらしました。これを、当初の利用目的(第9回参照)の主な項目に沿って確認してみましょう。

■ 製造機械(動力源の確保)
 琵琶湖疏水は、京都の工業化推進に向けて水車動力を確保することが当初の第一の目的でした。しかし、田辺朔郎・高木文平が米国で視察調査をしたところ、大規模な水車の設置は京都の条件に合わないことが分かり、工事途中で、実用化されて間もない水力発電所を蹴上に建設し、電力を供給することにしました。ただ、水車動力も、初めの計画から大幅に縮小されたとはいえ併用されています。
 蹴上発電所は疏水開通のほぼ1年後の’91(明24)年に完工し、同年11月、送電を開始しました(発送電は京都市の直轄事業)。とはいえ、当初の供給先は時計製造業の1工場と、電気式に切り替えた蹴上インクライン程度で、決して需要家が待ち構えていたわけではありませんでした。そこで、蹴上水力発電所より一足先の’89(明22)年から石炭火力による発電・供給を行っていた京都電燈株式会社にも売電し(’92年以降)、一般家屋への配電も行うようにしましたが、それでも事業採算にはほど遠い状態でした。
 対策として、’94(明27)年2月に京都電気鉄道株式会社(社長は高木文平)を設立し、自ら大口消費先をつくりました。同社は’95年(明28)2月1日、日本初の電気鉄道(路面電車)を開業します。最初の路線は伏見町油掛から七条の京都停車場に至る伏見線で約7kmで、2カ月後の4月1日には、岡崎で始まった内国勧業博覧会のアクセスとして、京都停車場から五条小橋・二条大橋を経て疏水沿いに南禅寺に至る木屋町線も開通させました。
 その後、予想どおり、市内の工業化進展とともに電力需要は増加し、とくに日清戦争(’94年)後に急増し、1902(明35)年の記録では工業用が紡績、伸銅、機械、タバコなど100工場、電灯使用家屋も5,000戸に供給が拡大しています。そして疏水関連収入の大半を占める大黒柱に成長していきます。“電力効果”によるものでしょうか、この時期、京都の工場立地数は東京・大阪を上回り、まさに北垣国道知事の狙いどおりとなりました。
 蹴上発電所は増設により供給量を引き上げますが、それでも足りなくなる心配がでてきたため、京都市は発電事業拡大と、そのための水量確保(すなわち第2琵琶湖疏水の建設)に取り組んでいきます。そして、1912(明45)年5月の第2琵琶湖疏水完工を待って、鴨東運河の夷川舟溜りに夷川発電所、鴨川運河の深草に伏見発電所が建設されました(いずれも1914(大3)年に完工)。
 一方、水車動力の方は装置整備に時間を要したため、本格的な利用が始まったのは’94(明27)年に入ってからでした。記録ではこの年、精米・製綿・撚糸・鍛冶などの業者が利用したとなっています。それらの作業場は疎水分線(支流)の、いわゆる哲学の道沿い(鹿ヶ谷若王子一帯)に設けられていたとみられます。1903(明36)年には21カ所で水車動力が使われたとの報告があります。水車動力利用者は、その後も明治末年まで着実に伸びたということです。

■ 運輸(交通・運送手段の確保)
 交通・運送でも、琵琶湖疏水は大きな役割を果たします。舟運で大津から米・油・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、市民生活に欠かせない物資が豊富に、早く、安い運賃で運ばれてくるようになりました。伏見からも京都市中に薪炭が移送されました。他方、京都からも清水焼・京焼や織物などの特産品が送り出されました。当時、既に京都―大津には鉄道が開通していましたが、舟による輸送の方が破損などの心配もなく安全ということで利用が膨らんだということです。
 舟による旅客輸送も行われ、大いに賑わいます。1891(明24)年当時、大津―蹴上の下りは約1時間20分余りで料金4銭、上りが約2時間20分で5銭でした。上りはロープをたぐりながら流れを遡っていくのですから、下りよりも長時間かつ高料金になるのもむべなるかなです。それでも、ほぼ同区間の鉄道運賃の上等50銭(往復75銭)・中等30銭(同45銭)・下等15銭、馬車の8銭(ほどなく6銭に値下げ)に比べると格安だったので、重宝されたということです。
 舟運は年を追って盛んになり、’93(明26)年の延べ通舟数は貨物用 7,217艘・旅客用 12,540艘が、1902(明35)年になると貨物用 14,647艘・旅客用 21,025艘と、ほぼ倍加しています。伏見インクラインの完工(’95年3月)で大津―大阪がつながったことが大きく寄与したと思われます。
 しかし、競争相手の陸上輸送の方も黙ってはおらず、京阪電車が京津線を開通(1915(大4)年)し、省線〈現JR〉も東山トンネルを開通、同山科新駅を開設(1921(大10)年)すると、その影響を受けて旅客数は激減します。貨物も同様で、1925(大14)年をピークにしだいに廃れていきます(それでも1951(昭26)年9月まで貨物輸送は続けられました)。

■ 井泉(生活用水・生産用水の確保)
 当初の利用目的に、京都市民の生活用水・生産用水の確保が挙げられていました。京都盆地は“水がめ”に例えられるように豊富な地下水脈を持ち、水を基調とする飲食・文化・産業などを育んできました。ただ、それらの用水はもっぱら市中の井戸頼みで、さすがに真夏ともなるとしばしば渇水に見舞われ、水対策が待ち望まれていました。そこで琵琶湖導水に期待がかけられたのですが、実際に近代的な水道の整備の検討を始めたのは明治30年代に入ってからです。というのも20年代に渇水と水質悪化が目立つようになり、伝染病の原因にもなったからでした。
 ただ、1890(明23)年4月に完工した疏水(第1疏水)の水量では水道水を十分に賄えなかったため、具体化は第2疏水開通(1912(明45)年5月)を待たなければなりませんでした。第2疏水工事と並行して建設が進められた蹴上浄水場が完工したのは1912年3月、給水は翌4月から行われ、京都市の上水道事業が始まったのです。

■ 田畑の灌漑(農業用水)
 分線を通じて灌漑用水路が京都東北部一帯に広がり、農業生産力の増強に結びつきました。

■ 精米(精米用の動力利用)
 水車動力を利用した精米事業が広がりました。

■ 火災予防(防火用水の確保)
 何度も大火に見舞われた備え、とくに御所の防火用水として、琵琶湖疏水の活用が考えられました。「御所用水」は疏水完成後の1890(明23)年9月に着工し、8カ月後には鉄管の敷設が終わりますが、水量が不足していたため、実用に至るのは’97(明30)年ごろということです。
 また、東本願寺も、禁門の変(蛤御門の変、1864年)で類焼した伽藍の再建にあたり琵琶湖疏水から防火用水を引くことを求めました。それにより、’97(明30)年までに完工しています。

 琵琶湖疎水の利用事業は、いずれも利用料金を徴収して行われました。その収支状況の記録が今も残っています。それによると、収支は1896(明29)年度までは赤字だったものの’97(明30)年度に2万3千円余りの黒字に転じ、以後順調に推移しています。これはもっぱら電気使用料収入が急激に伸びたためで、’93(明26)年度に1万円程度であったのが、1900(明33)年に10万円の大台乗せ、1903(明36)年度に約13万円、’05(明38)年度約14万円、’06(明39)年度には16万円を超えています。発電事業がいかに稼ぎ頭となっていったかが分かります。
 ところで琵琶湖疎水建設事業の推進者で立役者だった北垣国道は、鴨川運河着工準備の最中の1892(明25)7月、古巣の北海道開拓使の長官に転出します(内務次官に任命されたものの、北垣がこれを断ったため、改めて北海道開拓使長官となった)。実は北垣も、’89(明22)年ごろから施政に行き詰まりが見られます。北垣が、有力経済人でもある府会議員の一団を味方にして府政運営を行っていたため、その批判勢力の抵抗に遭ったことや、琵琶湖疎水事業にあまりにも力を注いだため、恩恵を享受できない府民から強い不満が示されたことなどが原因でした。こうしたことが中央政府の耳に届き、栄転というかたちで京都から退出させられたのでした。

2013/09(マ)
*次回は「琵琶湖疏水のたまもの(その2)」です。

 

【琵琶湖疏水関連年表】

1890(明23)4月 9日琵琶湖疎水竣工式
1890(明23)4月 鴨東運河完工
1891(明24)5月 蹴上発電所完工(11月送電開始)
1891(明24)7月 疏水運搬船の大津―蹴上間第1号就航
1891(明24)11月 蹴上インクラインが電気運転を開始(12月26日営業開始)
1892(明25)7月 北垣国道知事が北海道開拓使長官に転任(千田貞暁が第4代知事に就任)
1892(明25)11月 鴨川運河着工
1894(明27)2月 京都電気鉄道株式会社発足
1894(明27)9月 25日に鴨川運河疏通式
1895(明28)1月 10日に鴨川運河通船開始
1895(明28)2月 1日に京都電気鉄道・伏見線(伏見町油掛~七条)開業
1895(明28)4月 1日に京都電気鉄道・木屋町線(七条~南禅寺)開業
1895(明28)3月 伏見インクライン完工
1897(明30)8月 東本願寺防火用水工事完成
1902(明35)4月 市議会が京都府に第2琵琶湖疏水工事計画を出願
1906(明39)4月 京都府・滋賀県両知事が連署で第2琵琶湖疏水を工事許可
1908(明41)2月 内務省が水道敷設認可
1909(明42)5月 蹴上浄水場の建設に着工
1912(明45)2月 御所水道工事完成
1912(明45)3月 蹴上浄水場が完工(4月から水道給水)
1912(明45)5月10日に第2琵琶湖疏水通水

 

【参考資料】

▽京都市上下水道局編『琵琶湖疏水の100年』
▽京都市上下水道局・琵琶湖疏水記念館常設展示図録(2009年版)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽織田直文『琵琶湖疏水―明治の大プロジェクト』(かもがわ選書)
▽浅見素石『よもやまばなし 琵琶湖疏水』(サンライズ出版・淡海文庫)

蹴上発電所(第2期発電所の建物)…1891(明24)年に造られた日本最初の水力発電所で、創業時の建物はその後の改修により姿を消した。発電所そのものは、関西電力の施設として今も稼働している

復元されたインクライン……船は積み荷ごと台車に乗せられ山腹の蹴上舟溜まりと盆地下部の南禅寺舟溜まりとの間を上り下りする。当初は水車動力だったが蹴上発電所稼働後は電気式に切り替えた

琵琶湖で取水された水は蹴上から鴨川運河を経て伏見に至る(伏見区内にて)


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