京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)
京都・近代化の軌跡

第20回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)


洋式染色技術普及・染料国産化に尽力し 日本の染織業界を発展させた 稲畑勝太郎
 稲畑勝太郎[いなばた・かつたろう、1862~1949/文久2~昭和24]は日本の染料業界をリードし、後に関西経済界も指導した経済人です。フランスで発明された映画装置「シネマトグラフ」を日本で初めて輸入し、映画興行を実現した人物でもあります。
 稲畑は京都の和菓子屋に生まれ、京都師範学校〈現 京都教育大学〉在学中の1877(明10)年、府政アドバイザーのレオン・ジュリー(フランス人) から推薦され、京都府派遣勧業生(合計8人)の一人として当時の繊維産業のメッカ、フランスのリヨンに留学します。かの地ではフランス語を修得したうえで工業学校に進み、卒業後はマルナス染工場の工員(研修生)となって生産現場を体験。さらにリヨン科学工業技術学校〈現 リヨン大学〉で工芸化学を専攻します。’85(明18)年に帰国すると明治政府から農商務技師への誘いがかかりますが、これを断り、京都で洋式染色技術普及(京都府染工講習所の設立)に奔走します。さらに’87(明20)年、京都における近代的繊維産業の拠点とするべく京都織物会社の創立に参画し、染色技師長として入社します。しかし、設立した京都織物会社の経営不振が続いたため、責任を問われ退社のやむなきに至ります。
 この後、稲畑は自力で事業を起こし、’90(明23)年、三条大橋東に「稲畑染料店」〈現 稲畑産業株式会社〉を開業(後、西陣に移転)。フランス留学時代の人脈を生かして高級合成染料を直輸入するとともに、国産染料の開発にも取り組みます。そして、染色業者に最新の染色法を講習しながら染料を販売する方法で、多くの顧客を獲得していったということです。この時期、織物業は洋式織機の導入で量産化が進み、それに対応した大量かつ品質の良い染色が求められていたので、稲畑が提供する染料と染色技術は京都をはじめとする染織業界の発展に大いに貢献しました。
 また、海外からの輸入織物だった黒繻子(くろしゅす)、毛斯綸(もすりん)の国産化のため紡織会社を設立、’97(明30)年には大阪に染工場も建設、自ら染色加工に乗りだしています。この工場によるエビ茶色の独特の染色は、当時の女学校の制服の袴に採用され、一世を風靡しました。日露戦争の際には軍服用のカーキ色染めも考案しています。こうした事業展開は大阪でがぜん注目を浴び、1922(大11)年から12年間、大阪商業会議所〈現 大阪商工会議所〉会頭に就任しています。
 稲畑はフランスのリュミエール兄弟が発明(1895年)した映画装置「シネマトグラフ」を日本に紹介し、日本での映画産業の先駆けを行ったことでも知られています。稲畑はリュミエール兄弟の兄のオーギュストとリヨン科学工業技術学校の同級だったので、稲畑が商用で渡仏した際、その発明を見せられ、ビジネスを超えて関心を抱いたようです。さっそく、映写機・撮影機・上映フィルムを譲り受け、興行権も買収し、帰国のとき持ち帰りました。時に1897(明30)年でした。
 そして、河原町蛸薬師東入ルの京都電燈株式会社の庭(後の京都市立立誠小学校=廃校=の敷地内)で試写会を行い、大きな話題となりました。さらに、大阪の南地演芸場で有料上映会(日本で最初の映画興行)を開き、これも大成功を収めました。しかし、この後、稲畑はシネマトグラフと興行権を京都の横田万寿之助・永之助兄弟に委ね、映画をビジネスにすることはありませんでした。

映画興行と製作の先駆者として日本の映画文化を興隆させた 横田永之助
 稲畑勝太郎から「シネマトグラフ」の装置と興行権を託された横田兄弟のうち、兄の万寿之助は稲畑の小学校時代の同級生で、かつ京都府勧業生として共にフランスに留学派遣された仲でした。しかし、万寿之助が程なく映画興行から手を引いたため、後を受けて映画を文化的産業的に発展させたのは弟の横田永之助[よこた・えいのすけ、1872~1943/明治5~昭和18]でした。
 永之助は京都・岡崎の生まれで、札幌農学校〈現 北海道大学農学部〉卒業後に米国に留学しています。1892(明25)年に帰国後は神戸の内外物産貿易会社に入社し、日本の特産品の輸出と海外産品の輸入に携わっていました。そこに ’97(明30)年、稲畑からシネマトグラフの輸入と公開(興行)の事業をもちかけられ、引き受けたのが映画産業とのかかわりの初めでした。
 1900(明33)年、永之助は兄の万寿之助、稲畑とともにパリ万国博覧会へ京都府出展委員として派遣されます。その際、映画の発展を目の当たりにし、改めて映画の娯楽としての可能性・発展性を認識します。そして、新しいシネマトグラフ装置を日本に持ち帰り、普及に本腰を入れます。’03(明36)年には横田兄弟商会(後に横田商会に改称)を設立し、地方巡業などに取り組んでいたところ、’04(明37)年からの日露戦争を伝える映画(制作はフランスの会社)が喝采を浴び、興行も一気に上向きます。そこで、さらなる発展を期して着手したのがシネマトグラフ(映画コンテンツ)の製作でした。
 この頃、横田はシネマトグラフの上映会場とした西陣・千本座の経営者、牧野省三[まきの・しょうぞう、1878~1929/明治11~昭和4]と知り合い、意気投合して共同で映画事業に乗りだします。’08(明41)年には二条城近くに撮影スタジオを建設、“目玉の松ちゃん”の愛称で売れっ子となる尾上松之助を主役に起用し、時代劇映画で大当たりをとります。さらに’12(明45)年、同業の3社とともに日本活動写真株式会社(日活)を設立し、映画文化を隆盛に導いていきます。
 こうした経過と実績により、京都は“日本映画のふるさと”と呼ばれるようになったのです。

「松竹」を創業し 劇場王と呼ばれた 白井松次郎・大谷竹次郎
 白井松次郎[しらい・まつじろう、1877~1951/明治10~昭和26]は演劇興行を組織化・産業化した京都出身の興行家です。双生児の弟、大谷竹次郎[おおたに・たけじろう、1877~1969/明治10~昭和44]と「松竹」を創設し、日本の劇場王とまで呼ばれました。
 松次郎と竹次郎は四条花見小路祇園館の売店を営む大谷栄吉の子として生まれました。松次郎は後に白井家の婿養子に入り、白井姓となりました。兄弟は、父の栄吉が新京極の劇場の金主(スポンサー)であった関係で幼時から演劇に親しみ、興行を覚えます。二人は20歳のとき新京極で興行運営・劇場経営に乗りだし、次々と近隣の劇場を手に入れます。1902(明35)年、25歳のとき松竹合名会社〈現 松竹株式会社〉を設立し、竹次郎を中心に東京にも進出していきました。’14(大3)年には東京・歌舞伎座での興行を始め、京都・大阪・東京の主要な劇場の多くを二人の運営下におきます。
 さらに、’20(大9)年には松竹キネマ合名社を設立し、隆盛に向いつつあった映画製作にも進出します。そして、劇場所有や俳優とのつながりといった経営資源をフル活用し、演劇興行のみならず映画界をも席巻していったのです。

呉服商「高島屋」を近代化し 百貨店の雄に育てた 飯田新七・第4代
 4代目飯田新七[いいだ・しんしち、1859~1944/安政6~昭和19]は家業の呉服商を発展させるとともに百貨店を起こし、現在の「高島屋」を築きました。
 飯田家は、祖の儀兵衛は近江・高島郡の出身で、京都の烏丸松原上ルで米穀商「高島屋」を起こしたのが始まりです。儀兵衛の娘(秀)の婿養子となった新七(初代)が古着・木綿商「高島屋」を開店、その初代新七と秀の娘(歌)の婿養子となった2代目新七は幕末維新の混乱期を乗り切ったうえ、店を大手呉服商に発展させています。次の3代目新七(幼名 直次郎) は2代目の長男で、その実弟が4代目新七(幼名 鉄三郎)です。3代目はアイデアマンで経営の才も優れていたといわれますが、病弱のため1888(明21)年に隠居のやむなきに至り、鉄三郎が家督を継いだのでした。
 4代目飯田新七は、兄の3代目のアイデアを受け継ぎ、持ち前の実行力で呉服太物商(呉服は絹織物、太物は木綿や麻などの太い糸の織物)の発展に努めました。具体的には、万国博覧会への出品と賞の獲得、「百選会」の創始などです。そして大阪・東京に支店を設け、貿易事業(ヨーロッパから高級織物を輸入し、日本から西陣織や刺繍などを輸出)も手掛けます。貿易事業は後に「高島屋飯田株式会社」として独立させます(その後に丸紅と合併)。そして呉服店の百貨店化を志し、1907(明40)年に大阪店を改築、’12(大1)年に京都店を鳥丸松原上ルに新築、’16(大5)年には東京店を新築するなど、三越〈現 株式会社三越伊勢丹〉・大丸〈現 株式会社大丸松坂屋百貨店〉と並ぶ百貨店に成長させました。
 ちなみに大丸は、伏見・京町の下村彦右衛門正啓が1717(亨保2)年に、生家で古着商「大文字屋」を開いたのを創業としています。早くも’26(亨保11)年には水運でつながりの強かった大坂に大坂店「松屋」を開き現金正札販売を開始、’28(亨保131)年には名古屋店「大丸屋」(これ以降、屋号を「大丸」とする)、’36(元治1)京都・東洞院船屋町に大丸総本店、’43(寛保3)年に江戸店をそれぞれ開店し、とんとん拍子に主要都市に展開していきます。1912(明45)年、現在の大丸京都店の地に「京都大丸」新築したのを機にデパート形式を採り入れ、以後「百貨陳列販売」を主業務としました。

行商から身を起こし、百貨店「藤井大丸」を築いた女性経営者 藤井キク
 藤井キク[ふじい・きく、1855~1936/安政2~昭和11]は行商から身を起こし、百貨店「藤井大丸」を創業した女性経営者です。
 京都の寺侍の家に生まれ、15歳で大津の商家へ行儀見習に出されますが、そこで知り合った藤井大助と1869(明2)年に結婚します。当初は菜種油(後に呉服)の行商に精を出し、“現金商売”を信条に西日本一円・九州にまで足をのばしました。’91(明24)年、四条通河原町上ルに「藤井大丸呉服店」を開店し、現金正札でどこよりも安く売ることを実践し評判をとります。そして’95(明28)年には四条御旅町北側に4階建の店を開くまでになります。新店では一部に陳列棚方式を採り入れ、客の購買意欲を高めることに成功します。さらに、明治末年の四条通拡幅の機をとらえ、四条寺町に洋館三階建を新築。呉服以外の商品も置き、百貨店を志向します。通りに面してショーウインドーを設置するなど、顧客志向の商売を貫きました。
                                     2014/06(マ)
                                *次回は「三大事業」です。

京都を創業の地とする「高島屋」は、最初烏丸通り松原上ルの現京都銀行本店の地に百貨店の店舗を構えた(写真は、下京区四条通河原町の現在の京都タカシマヤ)

行商から身を起こした藤井キクが開業した百貨店「藤井大丸」(下京区四条通寺町西入ル)

京都出身の興行家、白井松次郎・大谷竹次郎兄弟が創立した「松竹」が運営する京都・南座(写真は2012年12月)


過去の記事

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京都・近代化の軌跡 第20回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)
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