京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)
京都・近代化の軌跡

第19回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)


京都における科学技術の先覚者 二代目・島津源蔵
 二代目・島津源蔵[しまづ・げんぞう、1869~1951/明治2~昭和26]は、京都における科学技術の先覚者となった初代島津源蔵[1839~94/天保10~明治27]の二男として生まれました(幼名は梅治郎)。初代が1894(明27)年に急逝したため25歳で後を継ぎますが、二代目は幼少時から独学で洋書から技術的知識を修得し、16歳のときに感応起電機(教育用発電装置)を完成、翌年には都をどりで初めて電灯を点け、18歳から父に代わって京都師範学校〈現 京都教育大学〉金工科教師を務めるなど、早くから才能を認められていました。
 島津製作所の責任者となってからは第三高等学校教授・村岡範為馳に協力してX線写真の撮影に成功(1896(明29)年)します。ドイツでW.C.レントゲンがX線を発見してからわずか10カ月後だったということです。そして、その撮影装置や電源(蓄電池)の製造に着手します。
 とくに蓄電池の改良工夫には生涯取り組み、鉛塊から主要材料となる亜酸化鉛を効率よく生成する「易反応性鉛粉製造法」を発明するなど大きな成果を上げています。島津製作所は蓄電池を「GS蓄電池」のブランドで売り出していますが、これは島津源蔵のイニシャルを取ったものです。後に電池製造事業を分離、設立したのが日本電池株式会社〈現 株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション〉です。さらに、亜酸化鉛粉から防錆剤を製造・販売する事業も始め、こちらは大日本塗料株式会社(本社 大阪)として独立させました。
 このように、二代目・島津源蔵は京都における研究開発型事業、いわゆるベンチャービジネスの最初の成功者となり、その技術的成果と事業活力をもって京都の精密機械・電機電子業界の基盤づくりに大きく貢献したのでした。
                          (この項はシリーズ第8回の記述を引用)

度量衡の普及に尽くし「ハカリの石田」の事業基盤を築いた 二代目・石田音吉
 二代目・石田音吉[いしだ・おときち、1861~1920/文久1~大正9]は、京都府愛宕(おたぎ)郡聖護院村〈現 京都市左京区内〉の農家に生まれました。幼名は梅吉。父の初代・音吉は維新後、農業と併せて醤油、新聞、売薬などを商い、梅吉も父が経営する種油店で商売を覚えました。20歳で家督を相続し(二代目・音吉を襲名)、家業も引き継いだ後、1893(明26)年に新たに衡器製作修理販売所を開きます。これは、’91(明24)年に経済活動の基盤ともいうべき度量衡法が公布されたものの、秤(はかり)の精度が低く普及が進まなかったため、京都府から“信頼のおける製作者”として要請され、始めた仕事でした(衡器の製作には京都府の免許が必要でした)。
 しかし、持ち前の誠実さで信頼度の高い製品の開発に努め、腕の良い職人も集まったことから経営を序々に拡大していきます。やがて度量衡器すべてを扱うようになり、「ハカリの石田」の事業基礎を築きます。「ハカリの石田」はやがて株式会社石田衡器製作所となり(1948(昭23)年)、今では自動計量機とその周辺機器類などで日本はもとより世界の流通業に大きく貢献する「イシダ」に成長しています。
 二代目・音吉は、事業のかたわら京都府会議員・京都(明37年から2年間、市会副議長に就任)し、内国勧業博覧会の京都開催、平安神宮造営、明治末年の京都市三大事業などに力を尽くしています。

両切り紙巻きたばこを製造・販売し「たばこ王」となった 村井吉兵衛
 村井吉兵衛[むらい・きちべえ、1864~1926/元治1~大正15]は「たばこ王」とまで呼ばれた実業家です。京都の煙草商の家に生まれ、幼少の頃(幕末期)から煙草の行商に携わります。明治になると、行商で蓄えた資金をもとに、たばこの製造に踏み出します。そして、たばこといえばキセルで吸うのが一般的だった時代に、日本初の両切り紙巻きたばこ(タバコの葉を紙で巻いて直接吸えるようにしたもので、“両切り”は吸い口=いわゆるフィルター=を付けていないたばこ)を製造・販売し、人気を博します。1891(明24)年のことです。そして、シカゴ万国博視察を機会に渡米し(’93(明26)年)、得られた知識と情報にもとに製品改良を重ね、箱(パッケージ)にも斬新なデザインを取り入れます。こうして’94(明27)年に発売した、輸入葉混用の「ヒーロー」が大ヒットし、生産量日本一の座に着きます。「ヒーロー」は中国(清)にも盛んに輸出されました。
 たばこは1904(明37)年、日露戦争の戦費調達のため、国によって専売化され、民間では製造・販売できなくなるのですが、その際、村井には莫大な補償金が入ります。それを元手に村井は、村井銀行、東洋印刷、日本石鹸、村井カタン糸などの事業を設立し、一大事業グループを形成します。村井銀行は後年(村井吉兵衛の死後)、“昭和恐慌”によって破産し、グループも消滅しますが、「たばこ王」村井の立志伝は京都産業の近代化の中でも異彩を放っています。
 村井がグループの迎賓館として東山に建設したのが「長楽館」です。

京都窯業の近代化に取り組んだ 三代目・松風嘉定
 三代目・松風嘉定[しょうふう・かてい、1870~1928/明治3~昭和3]は、碍子(がいし、電線を支柱に取り付ける際の絶縁器具)や、陶歯の製造で事業を成しました。三代目・嘉定は愛知県瀬戸の生まれですが、1888(明21)年に京都陶器会社に入社。’90(明23)年に清水の陶工であった二代目・松風嘉定の養子に迎えられ、以後、京都窯業の近代化に取り組みました。
 1906(明39)年、輸出陶器の製造をこころざして松風陶器合資会社を創立。翌’07(明40)年には伏見区福稲に近代的工場を新設しました。この時期、新たなエネルギー源として「電気」の普及が始まっており、これに着目して碍子の製造に乗りだしたのでした。そして、苦心の末に開発した高圧碍子が高く評価され、会社の規模は大きく拡大します。’17(大6)年、組織を改めて松風工業株式会社とし、新たに陶歯の製造にも取り組みます(陶歯部門は後に、松風陶歯製造株式会社として分離します)。
 京焼・清水焼の技術を、従来の食器や花器製品、そのほか美術工芸品以外の分野(とくに産業)に応用し、新たな製品を生みだした功績は小さくありません。

“新式焼酎”を導入し市場を席巻した 四方卯三郎
 四方卯三郎[よも・うさぶろう、1867~1945/慶応3~昭和20]は京都府下乙訓郡海印寺村〈現 長岡京市内〉で生まれました。教育家をこころざし、京都師範第1回卒業生となって教壇に立ち、21歳で小学校長に登用されますが、伏見の酒造業者、四方家から乞われ、同家に入ります。この転身は、教育における理想と現実があまりにも違ったため落胆したからだといわれています。
 四方家は江戸後期の1842(天保13)年、四代目・卯之助が清酒180石(1石=180リットル)の製造・販売の権利(酒造株)を譲り受け、伏見で酒造を開始。以来、清酒のほか焼酎、みりん、白酒なども手がける有力業者となっていました。
 醸造家となった四方卯三郎は1905(明治38)年、みりん・焼酎の醸造販売を専業とする四方合名会社〈のち 宝酒造株式会社に改組〉を設立し、高品質・低価格の焼酎の開発に取り組みます。その結果、甘藷(さつまいも)を原料とする焼酎の醸造に成功します。さらに、愛媛県宇和島のアルコール製造会社、日本酒精が開発した“新式焼酎”の品質に注目し、日本酒精から関東での独占販売権を獲得し、みりんで使用していた「寶」の商標で販売しました(’12(明45)年)。“新式焼酎”は、一定の度数にしたアルコールと粕取(かすとり)焼酎を混和したもので、現在の甲類焼酎の原型といわれるものでした。
 ’16(大5)年、日本酒類醸造〈旧・日本酒精〉が他社に買収されたのを機に、“新式焼酎”の開発者の一人で、同社の技師兼工場長となっていた大宮庫吉[おおみや・くらきち、1886~1972/明治19~昭和47]をスカウトし、自社製造を開始しました。以後、四方は大宮を右腕とし、二人三脚で四方合名会社の業容を拡大していきます。そして醸造界の巨人と評されるまでになりました。

酒造業の近代化に努め“伏見”を全国銘柄にした 大倉恒吉
 大倉恒吉[おおくら・つねきち、1874~1950/明治7~昭和25]は、1637(寛永14)年創業という老舗の酒蔵〈創業時の屋号は笠置屋〉を近代化し、自社〈現 月桂冠株式会社〉のみならず“伏見の酒”を名実ともに日本のトップクラスに押し上げた企業家です。
 大倉は二男でしたが、跡継ぎと当主が相次いで死亡したため、1887(明20)年、わずか13歳で第11代当主となります。そのため尋常小学校も中退、必死で酒造りを覚えたということです。酒が酸味をおびる“火落ち”や腐造などに悩まされますが、その原因を科学的に究明し、対策を講じていきます。その一環として、当時普及しつつあったガラス瓶に着目し、瓶詰め販売を思いつきます。このとき酒銘として採用したのが「月桂冠」でした(1905(明38)年)。
 当時、酒は、酒蔵から仕入れた樽詰め酒を小売店(酒屋)が計り売りしていましたので、その過程で水などを加えられ(増量)、品質や味が落ちることがしばしばでした。ですからガラス瓶詰め販売は、品質保持・劣化防止のほか、流通にも大きな影響を及ぼしました。
 ガラス瓶詰めによって変質や品質劣化の心配が薄れるや、これを、当時急速に拡大していた鉄道網を利用して全国に販売し、大きな市場を獲得します。1910(明43)年には駅でもコップ付きの酒を販売し、「月桂冠」の名を一段と知らしめました。
 製造・販売だけでなく、企業経営でも進取の取り組みを行い、明治30年頃には複式簿記を導入しています。また、新聞を宣伝に利用するなど消費者直結型の販売を重視するなど、この面でも先進的でした。
 ‘11(明44)年から’22(大11)年と、’33(昭8)年から’35(昭10)年までの2度にわたり伏見酒造組合長に就任し、伏見を灘と並ぶ銘醸地・全国銘柄に育てることに大きな功績を残しました。
                                      2014/05(マ)

*次回は「民間企業の興隆と経済人の活躍(その8=ファイナル)」です。

村井吉兵衛が1900(明33)年、京都市東山区の馬町に建設したたばこ工場……2011年まで赤レンガの建物が遺っていたが、現在は特別養護老人ホームとなっている(写真はインターネットで入手した撮影者不詳のもの)

特別養護老人ホームの敷地には「村井兄弟商会 明治33年建築」の碑のみ保存されている。

村井吉兵衛が設立した旧「村井銀行五条支店」(建物は1924(大13)年頃の完工といわれる、現在は京都中央信用金庫支店)


過去の記事

京都・近代化の軌跡 第22回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その2)
京都・近代化の軌跡 第21回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その1)
京都・近代化の軌跡 第20回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その8)
京都・近代化の軌跡 第19回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)
京都・近代化の軌跡 第第18回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その6)
京都・近代化の軌跡 第17回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その5)
京都・近代化の軌跡 第16回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)
京都・近代化の軌跡 第15回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その3)
京都・近代化の軌跡 第14回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その2)
京都・近代化の軌跡 第13回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その1)
京都・近代化の軌跡 第12回 琵琶湖疏水のたまもの(その2)
京都・近代化の軌跡 第11回 琵琶湖疏水のたまもの(その1)
京都・近代化の軌跡 第10回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第9回 京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡 第8回 近代的産業活動の本格化
京都・近代化の軌跡 第7回 新たな賑わいづくり
京都・近代化の軌跡 第6回 在来産業のイノベーション(その2)
京都・近代化の軌跡 第5回 在来産業のイノベーション(その1)
京都・近代化の軌跡 第4回 知識と情報を商売の糧に
京都・近代化の軌跡 第3回 西洋の技術を取り込め
京都・近代化の軌跡 第2回 京都復興は人材育成から
京都・近代化の軌跡 第1回 プロローグ