京都再発見

京都・近代化の軌跡  新たな賑わいづくり
京都・近代化の軌跡

第7回 新たな賑わいづくり

~ 「新京極」建設


 今も昔も都市には賑わいが必要です。人々が集うことで交易が広がり、賑わうことで文化も生まれます。賑わいは都市が発展していくための大きな要素なのです。
 京都は「平安京」以来、国の中心地(みやこ)として、常に賑わってきました。中世以降の様子は「洛中洛外図」などで伺うことができます。近世(江戸時代)も後半になると全国で、有名社寺社詣でを名目とした一般庶民の旅行ブームが広がります。もちろん、京のみやこは「行きたいところ」ナンバー・ワン。『都名所図会』などガイドブックを片手に、たくさんの弥次喜多が集まりました。しかしそれも、幕末の治安悪化によるイメージダウン、維新後は“遷都”によるパワーダウンで、ご多分に漏れず衰微していきます。
 その復興に立ち上がった京都府(市政はまだ施行されていませんでした)が、産業(農・工・商の3業)振興を大きな柱として打ち出したことはすでに何度も記述してきました。“商”には農産物や工業品の販売促進と消費が含まれます。その消費拡大策の一として、京都府が取り組んだ事業が繁華街「新京極」の建設でした。今回は、近代化という新しい潮流の中で、どのように賑わいづくりを進めたか……です。
  新京極は、寺町通のすぐ東側に並行して、三条から四条の間(約500m)に設けられた通り一帯の名称です。その名は、平安京の東端を意味する「東京極大路」に由来します。かつての東京極大路は16世紀末、豊臣秀吉が京都を大改造したとき洛中の寺院に号令し、この大路沿いに80カ寺を再配置したことから「寺町通」となりました(秀吉がこの地に寺院を集めたのは、みやこの東側の防備のためだったと思われます)。もちろん、寺町通沿い一帯は多くが寺院領地(境内)となり、それが江戸時代末まで続きます。

 では、なぜそこに賑わいづくりの拠点として新京極が建設されることになったのか―。提唱者は当時、京都府の参事を務めていた槇村正直(まきむら・まさなお、後に二代知事)と言われています。いきさつなどは、確かな記録がないため定かではありませんが、次のように伝承されています。
 すなわち――寺町通の三条通から六角通にかけて、法然上人ゆかりの浄土宗・誓願寺という大寺院(敷地は6500坪あったといわれています)があり、また寺町通四条には時宗の金蓮寺があり、いずれも参詣人で賑わい、参詣人を当て込んだ茶店、見せ物小屋・寄席も境内に建ち並んでいたということです。ところがそれらは1864年(元治1)、蛤御門の変によって引き起こされた大火(どんどん焼け)で、堂塔もろとも焼かれてしまいます。ご時勢で復興もままならず、荒れ地になろうとしていた’69(明治2)年、版籍奉還(中央集権を強めるため領地と人民を天皇に返還させる政策)が実施され、誓願寺のような大社寺も土地を明治政府に没収されてしまいます(誓願寺からの官収面積は4800坪を超えたとされています)。
 こうした状況と推移に目をつけたのが槇村で、誓願寺から金蓮寺にかけての寺領地(境内)の一部を供出させ、集客―賑わいづくりのための再開発を目論んだのでした。

*誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山として、今も京都市中京区新京極通三条下ル桜之町453にあります。この寺の第五十五世法主・安楽庵策伝(1554~1642)が著した『醒睡笑(せいすいしょう)』は落とし咄の原典といわれ、ゆえに誓願寺は落語発祥の地の一つに挙げられています。一方、金蓮寺は1928(昭和3)年、京都市北区鷹峯藤林町1-4に移転しました。

  さて、官収した用地を整備し、そこに南北の街路(現在の新京極通)を設けたのが1872(明治5)年。同時に沿道の土地を商業地として売り出しました。しかし、元寺領地ということで当初はなかなか買い手が付きませんでした。困った槇村は大道芸人・香具師仲間の親分に頼み込んで、芸人・業者をかき集めたという逸話も伝わっています(真偽の程は分かりません)。
 それでも’76(明治9)年になると、芝居・浄瑠璃・講談・落語の小屋、見せ物小屋、弓などの遊戯屋、料理屋、牛肉屋、煮売屋、蕎麦屋、茶店、写真店など70~80店が軒を連ねます。見る・買う・食べるの“繁華街三要素”を備えた新街区が形成され、やがて狙いどおり賑わいが創出されます。とくに、「文明開化」の時流に乗った店が人気を集めたということです。
 さらに、新京極は劇場のメッカへと成長し、白井松次郎・大谷竹次郎の「松竹(まつたけ)」兄弟(双生)も新京極を演劇事業(興行)の出発地としました(ゆえに京都は松竹株式会社の発祥の地とされています)。京都出身の実業家、稲畑勝太郎(稲畑産業の創立者)がフランスから持ち帰ったシネマトグラフ(活動写真)の試写会も行われ、日本の映画上映の草分けにもなりました。
 京都の近代化において、商業振興策は「新京極」がすべてではありませんが、都市再開発と一体化させた事業として記録に残ることは間違いないでしょう。

2013/03(マ)

【関連年表】

1590(天正18)  豊臣秀吉が京都の大改造を行い、その一環として洛中の寺院を旧東京極大路
                         一帯に集め、寺町通を開く
1700年代     寺院の境内ごとに参詣人目当ての芝居・見せ物小屋。茶店などが建つ
1864(元治1)  蛤御門の変(禁門の変)による大火災により、寺町通一帯も焼け野原となる
1868(慶応4)  明治新政府が太政官布告(いわゆる神仏分離令)を発し、廃仏毀釈始まる
1869(明治2)~ 版籍奉還にともない「独り社寺のみ土地人民私有の姿にては不相当」との
                        理由で土地などの没収が行われる
                        京都府参事・槇村正直を中心に「新京極」建設計画
1872(明治5)  新京極開かれる
1877(明治10)頃 芝居・浄瑠璃・寄席のための本格的劇場、飲食店などが集まり、繁華街を
                        形成し始める
1900年代     東京・浅草、大阪・千日前とともに日本の三大盛り場と称されるようになる

【参考資料】

▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)

【写真】

① 京都土産を買い求める観光客が目立つ新京極

② 新京極通三条下ルの現在の誓願寺…かつてはどんな堂塔だったのか

 


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