京都再発見

京都・近代化の軌跡  西洋の技術を取り込め
京都・近代化の軌跡

第3回 西洋の技術を取り込め

~ 勧業場と舎密局の開設


 京都の近代化に向けた諸施策の中で、勧業、すなわち農・工・商の3業振興はひじょうに重要な政策課題でした。なぜなら、勧業は人間の身体に例えるとカラダづくりであって、体力がなければアタマ(前回取り上げた人材育成策など)も働かないからです。
 ところで、京都は古代の平安京創建以来、日本のモノづくりの中心地でした。それに伴って原材料調達や製品供給など地方との交易(流通)も盛んでした。しかし、近世(江戸時代)に入ると徳川幕府の政策により、商工業の拠点が大坂に移されます(大坂が“天下の台所”となったのは幕府の政策によるものです)。さらに中頃、全国の諸藩が競って商工業振興に取り組んだ結果、京都の経済的地位はいっそう低下します。そのうえ、1788(天明8)年の大火など災害にも見舞われ、西陣織のように目に見えて衰退する業種も現れました。そして明治の遷都です。
 最大の顧客だった朝廷と公家がそっくり東京へ移ってしまったのですから、たまったものではありません。モノづくりも流通も大打撃を被りました。農・工・商の3業を立て直すにはどうすればよいか―。京都における明治初期の勧業施策は、そのような窮状極まる中で策定され、取り組まれたのでした。

  さて、日本は1853(嘉永6)年、ペリー率いる米国艦隊(黒船)の来航により、“太平の眠り”を覚まされました。そして開国か“鎖国”維持か、あるいは攘夷(外国人排斥)かをめぐって騒然となるのですが、そのいずれの立場であっても、日本が欧米の技術や生産力からまったく立ち後れ、国力(とくに軍事力と、それを支える経済力)に大差があることは認めざるをえませんでした。そのため、欧米の強国に対抗するには欧米の文化を取り入れて国力を付けなければならないという考えが幕末期、急速に広がります。これを受けて’68(慶応3)年、王政復古により発足した明治新政府も、「殖産興業」「富国強兵」をスローガンに、近代産業の育成に力を入れていきます。産業拡大によって国を豊かにし、財力を付け、強い軍隊をつくろうとしたのです。
 明治政府の殖産興業は、主に内務省と’70(明治3)年発足の工部省が担当します。そして、もっぱら欧米からの技術移転という方法で進めました。平たく言うと、外国から優れた技術者を呼んできて、最も有効な方法を伝授してもらったのです。日本に招いた技術者をお雇い外国人と呼びました(お雇い外国人への報酬は一般の公務員の約20倍だったということです)。
 この、明治政府の方針と施策は、地方でも奨励されます。それに呼応して、都市存亡の危機にあった京都府も、がぜん勧業に乗り出すのです。その主な柱は、旧来の産業の復興と、新産業の導入・創設でした。

 京都府の産業復興の基本方針は、早くも’70(明治3)年に打ち出されます。それだけ農・工・商3業の立て直しが緊急の課題だったと言えます。のちに知事となる槇村正直(まきむら・まさなお)権大参事(副知事)が立案したといわれる「京都府庶政大綱」には次の五大政策が示されています(筆者の意訳による)。
  一 京都の全域に産業を広げ、機械をもってモノづくりを推進する。
  二 遊休地を活用して特産物(茶、桑など)を生産する。
  三 水利・道路を開いて輸送効率を高め、商業を盛んにする。
  四 職業教育を進め、遊芸人を職に就かせる。
  五 商工業に関する海外の動向を知らしめ、人々の産業知識を向上させる。
 そして実際に、それらの方針をなぞるようにして取り組みが進められました。第1号が舎密局(せいみきょく)の開設です。そして勧業場(かんぎょうば)の開業、各種モデル工場建設と続きます。並行して西陣織、清水焼の製造技術、販売に関する支援も行われました。
 それぞれの目的や概要をみていきましょう。 

○理化学研究施設の「舎密局」
 舎密(せいみ)は、オランダ語のシュミーレ(化学)の音の当て字です。1870(明3)年、京都府の勧業課長・明石博高(あかし・ひろあきら)の建議により、槇村権大参事が大阪の舎密局から独立させるかたちで設立した理化学研究施設です。建物は、木屋町二条上ル(現在の 中京区土手町通竹屋町下ルの 銅駝=どうだ=美術工芸高校付近)の、まだ開業していない勧業場の中につくられました(その後、周辺地にも拡張されています)。
 その設立目的は、「理化学産業について教え、薬や飲み物を試作し、輸入飲食物に衛生上の問題がないかどうか検査する」ことでした。実際に石鹸・ガラス・漂泊粉などさまざまな工業製品、氷砂糖・鉄砲水(ラムネ)・ビールなどの飲食物の製造指導、薬物検定が行われました。また、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験も行いました。
 理化学教師はお雇い外国人でしたが、その中のゴットフリート・ワグネル(ドイツ人)は七宝焼きの着色術を指導し、清水焼の製造改良に貢献しました。ワグネルに師事した一人が島津製作所の創業者、初代島津源蔵です。ワグネルの功績は多大だったので、これを讃えて左京区の岡崎公園内に記念碑(設計は武田吾一)が建立されています。
 このように、西洋の理化学による産業知識の普及と製造方法の講習において大きな役割を果たした舎密局ですが、京都府の政策変更により、’81(明14)年に民営化されます。払い下げを受けたのは設立発案者の明石博高でしたが、資金面などで困難をきたし3年で閉鎖のやむなきに至りました。
 ちなみに、京都舎密局のモデルとなった大阪の舎密局は、’69(明2)年、大阪府によって開設され(場所は現在の大阪市中央区大手前)、西洋の近代化学・物理学を主とする講義と実験が日本で初めて行なわれました。’72(明5)年に閉鎖されましたが、大阪舎密局は第三高等学校の基(開校時は大阪)となり、京都に移転した三高は京都大学につながるという因縁をもっています。

○産業振興センターの「勧業場」
 京都府が「京都府庶政大綱」(勧業政策の方針)を実現するため、1871(明4)年、河原町二条下ル(東高瀬川の一之舟入近く)の長州藩邸跡地に創設したのが勧業場(かんぎょうば)です。その目的として「京都府下は東京遷都後に衰微が著しく、これを挽回し再び繁栄させるためには農工商の3業に新たな業種を誘致するなどして、立て直しを図らなければならない。そこで、この勧業場を設け、モノづくりを奨励し、製品の品種・生産量を拡大し、商業を保護し、諸工場を起こすなどモデル事業を行う」ことを挙げています(勧業場規則第一条)。
 そして府の勧業掛が常駐し、新技術の開発や採用を資金面から援助しました。また、技術の伝習のため、勧業場に先立って開設した舎密局を管下に置き、各種の事業場(モデル工場)も開設しました。このように勧業場は、産業振興のための政策センターと技術センターの二つの役割を担ったのです。
 ところで、府が産業振興のための財源としたのは、国から調達(借入)するなどして得た15万円の勧業基立金(きりゅうきん)、それに遷都に際して天皇から市民に下付された10万円産業基立金(通称 お土産金)でした。勧業場はその政策的活用を担当しました。 

○各種のモデル工場
 西洋の技術を導入し、実際に生産してみせたのが京都府営によるいくつもの事業場(勧業場の付属事業だけでも19を数えます)で、モデル工場となりました。主なものを挙げると……
 ・製革場の設立(1871(明4)年開設)
   葛野郡桂川西岸に設けられ、牛・猪・鹿皮などをもって舶来品を模した製品をつくり、販売
   しました。軍の装備などで皮製品の需要が高まることを見込んでのことでしょう。
 ・鉄具製工場(1873(明6)年開設)
   金属加工業の振興のため、伏見・向島に設けられました(別名、伏水製作所)。鋳型・木
   型・鍛冶の3作業場を設け、宇治川からの取水による水車を動力源としてボール盤・ダライ
   盤などの工作機械を稼働させました、鉄製農具、織機とその部品、印刷関連機器、銅線など
   が製造されたとの記録が残っています。
 ・織殿(おりどの、1874(明7)年開設)と染殿(そめどの、1875(明8)年開設)
   京都を代表する業種であった染織業の近代化のために設けられた試験場です。織殿は河原町
   二条下ルの角倉邸跡地(現、日本銀行京都支店所在地)に設置され、西洋式織機を導入し、
   その織法の研究と技術伝習を行いました。染殿は舎密局の付属施設として設けられ、輸入染
   料の使用法の研究と普及を行いました。試験場の染殿とは別に、実物の染工場も河原町通蛸
   薬師下ルにつくられています。
 ・洋紙の製造場(1876(明9)年開設)
   桂川左岸の梅津村に建設された機械製紙工場で、抄紙機を導入し、洋紙を製造しました。原
   料にはボロと稲わらを使用したということです。指導はお雇い外国人(ドイツ人)、ルドル
   フ・ケーマンから受けました。当初は洋紙需要がほとんどなく、製品の売りさばきに苦労した
   ようですが、西南戦争を契機に新聞・雑誌・書籍の刊行がにわかに盛んになり、繁忙をきわ
   めたということです。この工場は’80年に民間に払い下げられ、梅津製紙会社-富士製紙会社
   を経て王子製紙会社梅津工場になりました(1943年まで操業)。
 ・麦酒(ビール)造醸所(1877(明10)年開設)
   新高雄に建設され、清水寺の音羽の滝の水を利用してビールが醸造されました。ただし、味
   についての記録は残っていません。 
 そのほか、西梅津で屋根にタービンを使用した製糸場や、外国から輸入した牛・羊を畜産・講習して羊毛・牛乳を採取・販売した牧畜場、西洋薬草や蔬菜の試植・頒布を行った栽培試験場、養蚕場などがあります。

 勧業場が行った事業がすべて成功した訳ではありませんが、京都に文明開化の新しい風を吹き込み、その後に民間人が事業を起こす技術的基盤を提供するなど大きな誘導役を果たしました。
                                            *西陣織・清水焼の復興については回を改め取り上げます。

2012/11(マ)

【関連年表】
1869(明治2)4月 京都府が勧業方を設置
       11月 西陣物産引立会社開設
1870(明治3)3月 明治政府が京都に産業基立金5万両を下付
       7月 京都府の槇村正直権大参事が「京都府庶政」大綱を右大臣三条実美に上申
       11月 京都府が舎密局を開設
1871(明治4)2月 京都府が勧業場を開設
       4月 京都府が養蚕場を開設
       10月 京都博覧会(実質的に第1回)を西本願寺書院にて開催
       12月 京都府が製革場を葛野郡の桂川西岸に設立
1872(明治5)2月 京都府が牧畜場を荒神橋東詰(練兵場跡地)に開場
       11月 西陣織の織工を技術習得のためフランスへ派遣
       -月 新京極を建設
1873(明治6)2月 京都府が製靴場を舎密局内に開設
       4月 京都府が栽培試験場(農業試験場)を河原町押小路に開所
       12月 京都府が鉄具製工場(伏水製作所)を伏見・向島に開所
1874(明治7)6月 京都府が織殿を河原町二条下ルの角倉邸跡に開設
1875(明治7)11月 京都府が染殿を舎密局付属機関として開所
1876(明治9)1月 京都府が洋紙製造工場を梅津村に開設
1877(明治10)7月 京都府が麦酒造醸所を新高雄に開設
1881(明治14)1月 この年に就任した北垣国道知事の方針により、舎密局をはじめ諸工場のほと
                          んどが民間に払い下げられた 

【参考資料】
▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都大学百年史編纂委員会編『京都大学百年史 総説編』(京都大学後援会)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)

舎密局……木屋町二条上ルの長州藩邸跡に建設された府営の理化学研究施設。

舎密局跡地の案内板……中京区土手町通竹屋町下ルの銅駝美術工芸高校の構内に設置されています。

ワグネルの記念碑……舎密局のお雇い外国人で、多大な功績をしたワグネルを讃え、左京区の岡崎公園内に建てられています。


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