京都再発見

京都・近代化の軌跡  京都近代化のハイライト事業
京都・近代化の軌跡

第10回 京都近代化のハイライト事業

琵琶湖疏水建設(その2)


 琵琶湖疏水は1885(明18)年6月2日に滋賀県大津、3日に京都で起工式を行い、大津-京都間の建設工事が始まりました(実際の工事は8月6日、長等山の隧道竪坑から開始)。京都府知事・北垣国道(きたがき・くにみち)と関係者の、執念のプロジェクトでした。

 着工当初のルート設定は、琵琶湖岸の大津・三保ケ崎に取水口を設け、そこから園城寺(三井寺)のある長等山の麓まで運河、長等山下は隧道(第1トンネル)をうがち、抜けると再び運河で山科へ導水。山科では天智天皇陵北側を山沿いに運河で西進させ、東山の下を2本の隧道(第2トンネルと第3トンネル)でくぐらせ京都盆地の若王子(にゃくおうじ)に通水する―というものでした。その間、約11km。若王子から先はさらに北上し、下鴨を経由したうえで東高瀬川につなぐ計画でした(総延長約19km)。これを5区間に分け、分担して工事を進めようというわけです。
 その工事の責任者に抜擢されたのが、’83(明16)年に工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべ・さくろう、1861~1944)です。田辺は江戸(現 東京)生まれで、西洋砲術家であった父親が幼児のときに他界したため叔父(父の弟)の支援で勉学し、工部大学校に進学します。同校在学中に校長の大鳥圭介(おおとり・けいすけ、1833~1911)から北垣を紹介され、その誘いに応じて京都府入りしたのでした。北垣と大鳥とは、ともに北海道開拓使に勤務した間柄でした。
 田辺については、工部大学校の卒業論文として「琵琶湖疏水工事計画」を独自に著し、その「計画」がもとになって疏水が造られたというような紹介文を見ることがありますが、これは誤りでしょう。田辺の卒論の執筆時には、すでに京都府は琵琶湖疏水構想を固め実地調査に入っていました。また、実際の工事計画や第1トンネルにおける竪坑方式などは、南一郎平(みなみ・いちろべい)の案が下敷きになっていることは前回に記述したとおりです。ですから卒論が工事計画にどの程度寄与したのかは、論文が現存していないので不明です。確かなことは、田辺が、南の提案や測量担当の島田道生(しまだ・どうせい)の報告をもとに、さらに精密な工事計画を作成し、工事全体を指揮したこと、工事中に発生した新たな技術的課題に対処したことです。もちろん、それがどれほど偉大な功績かは、当時の関係者や土木技術の専門家が評価しているとおりです。ただ、何もかも独りでこなしたスーパーヒーローとするのは正しくないと考えます。

 ところで、工事の最大の難所は当初から長等山の第1トンネルとみられていました。山は堅い岩石でできており、そこを工事費節約のため日本人だけで、かつてない長さを掘り抜こうというのですから、結果を危ぶむ声もありました。現在のような重機、掘削機械はなく、ほとんど手掘りの時代です。しかし、島田による驚くべき精度の測量結果や、鉱山以外では初めてという竪坑工法(トンネル線上の山の上から井戸を掘り、トンネル位置まできたら水平に掘り進む方法で、工期が短縮でき通風口にもなる)採用が奏功し、着手から3年8カ月で貫通。疏水工事全体を大きく前進させました。むろん、一貫して順調だったわけではなく、竪坑工事中の湧水やトンネル内の土砂崩落、それらに伴う人身事故なども発生し、そのたびに関係者をやきもきさせました。
 工事にまつわる苦労といえば、建設資材や関連機器の調達も、関係者を大いに悩ませたようです。たとえばレンガ。トンネルの壁面や底を頑強に保持するため採用することになったのですが、必要見込み数1400万個に対し、その頃の国内年間生産量は200万~300万個程度と、まったく話になりません(コンクリート技術は導入されていなかった)。そこで工事幹部が考えた方法が、直営による製造でした。レンガ製造に経験のある京都府職員を登用し、実際に宇治郡の御陵(みささぎ)村(現 京都市山科区)に工場を建設、’86(明19)年7月、製造を開始しています。’89(明22)年10月の廃止までに焼成したレンガは1370万個と記録されているといいます。同じく、足場などに用いる木材も重要な建設用材ですが、一時の大量需要に応じられる体制ではありませんでした。そこで、これも京都府下と滋賀県下10カ所に直営の製材所をつくり、供給しています。機器類も不十分で、第1トンネルの急な湧水では、大慌てで排水ポンプを手配しています。

 工事途中での計画変更も少なからずありました。最も大きなものは疏水路のルート修正でしょう。山科から南禅寺山下隧道を経て若王子に至らせる当初計画は、地質上、第1トンネル並みの難工事が予想されたので、南寄りの日岡山下の隧道に変更され、蹴上に導水することになりました。蹴上から先も、政府の指示により、本線と分線(支流)の2コースに分けることになりました。すなわち、本線は通船用として西(岡崎方面)に延ばし鴨川に合流、一方の分線は灌漑用として南禅寺境内(水路閣)から北白川、下鴨を経て堀川に向かうようにしました。このとき、本線の蹴上・山腹部と盆地平地部の間(高低差約36m、距離約582m)をどのようにして船を往来させるか、問題になりましたが、台車に船ごと乗せて坂道を上り下りするインクライン(傾斜鉄道)が採用されました。
 さらに、疏水の利用目的(工業用動力確保)に水力発電(電力供給)が加えられたことも大きな出来事でした。当初は、米国ホリヨーク(マサチューセッツ州)の水車場施設に倣い、鹿ヶ谷付近に4段にわたって25基のタービン水車を設置し、動力源とする計画でした。この案は、米国で繊維産業調査を行った川島織物・川島甚兵衛(かわしま・じんべえ、1853~1910)の報告をもとに立てられたといわれています。しかし、ホリヨークの現場視察のため’88(明21)年に渡米した田辺朔郎と高木文平(たかぎ・ぶんぺい、京都商工会議所初代会長、1843~1910)が、かの国における電力普及の目覚ましさを見て“電気の時代”到来を確信し、発電施設設置を強力に申し出た結果、蹴上に水力発電所を建設することになったのです。モデルにしたのは、二人が訪ねたロッキー山中のアスペン(コロラド州)の、世界初の水力発電施設でした。これにより、水車動力利用計画は大幅に縮小されました。

 こうしたドラマをはらみながら、琵琶湖疏水(分線を含む)はほぼ5年を費やして’90(明23)年春に開通します。そして、蹴上から鴨川に至る鴨東運河と蹴上発電所(第1期)は建設中でしたが、4月9日に明治天皇・皇后、皇族の臨席、山県有朋(やまがた・ありとも)総理大臣、松方正義(まつかた・まさよし)大蔵大臣、西郷従道(さいごう・つぐみち)海軍大臣、榎本武揚(えのもと・たけあき)文部大臣ら政府要人の列席のもと、夷川舟溜まりで竣工式を行ったのでした。
 ちなみに竣工式前夜の「竣工夜会」では市内各戸に日の丸と提灯が掲げられ、夷川舟溜まり南側に祇園祭りの月鉾・鶏鉾・天神山・郭巨山が並び、如意岳の大文字も点火され、付近は人出で埋まり、盆と正月が一緒にきたほどの賑やかさだったということです。

2013/08(マ)

*次回は「琵琶湖疏水のたまもの その1」です。

 【琵琶湖疏水関連年表】

1885(明18)6月 2日に大津、3日に京都で起工式
1885(明18)8月 6日工事開始(長等山の第1トンネル竪坑掘削から)
1888(明19)4月 第1トンネル竪坑がトンンネル位置に到達
1887(明20)3月 第2トンネル・第3トンネルの掘削に着工
1887(明20)5月 蹴上インクライン建設工事開始
1887(明20)9月 南禅寺境内で水路閣の建設工事開始
1887(明20)12月 第2トンネルが完工
1888(明21)10月 田辺朔郎・高木文平が水力利用法調査のため米国へ出発
1889(明22)1月 10日に南禅寺境内で水路閣が完工
1889(明22)2月 27日に第1トンネルが貫通
1889(明22)2月 鴨東運河開削に着工
1889(明22)3月 第3トンネルが完工
1889(明22)4月 1日、国の「市制及町村制」施行により京都市発足
         (ただし特別市制が適用され、市長は北垣国道京都知事が兼務)
1889(明22)4月 28日に蹴上インクラインが完工
1890(明23)1月 蹴上発電所の建設(第1期)に着工
1890(明23)2月 10日に夷川閘門が完工
1890(明23)3月 大津―蹴上通水試験実施
1890(明23)4月 9日に竣工式
1890(明23)4月 鴨東運河完工
1891(明24)5月 蹴上発電所完工(11月送電開始)
1891(明24)7月 疏水運搬船の大津―蹴上間第1号就航
1891(明24)11月 蹴上インクラインが電気運転を開始(12月26日営業開始)
1892(明25)11月 鴨川運河着工
1894(明27)9月 25日に鴨川運河疏通式
1895(明28)1月 10日に鴨川運河通船開始

【参考資料】

▽京都市上下水道局編『琵琶湖疏水の100年』
▽京都市上下水道局・琵琶湖疏水記念館常設展示図録(2009年版)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽織田直文『琵琶湖疏水―明治の大プロジェクト』(かもがわ選書)
▽浅見素石『よもやまばなし 琵琶湖疏水』(サンライズ出版・淡海文庫)
▽田村喜子『京都インクライン物語』(中公文庫版)

琵琶湖の水は日岡山下の第3トンネルを経て蹴上に導かれる(蹴上側の出口)

南禅寺境内の水路閣…京都市所有の水路橋(京都市指定史跡)で、琵琶湖第一疏水の分線として現在も使用されている。半円アーチ式煉瓦造りで設計は田辺朔郎、1889(明22)年に完成した

工事を指揮・監督し、完工に導いた田辺朔郎(蹴上のインクライン公園に建てられた顕彰像)


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